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(山梨県 津金 海岸寺 百番観世音)

貞治は地蔵の他に三十三観音を作っている。
江戸爛熟期とはいえ、たびたび襲ってくる飢饉、疫病に人々は仏に頼るしか道は無く観音経は熱狂的に信仰されていた。
三十三観音はその人その立場に応じて三十三とおりに姿を変えてあらわれ救ってくれるというもの、西国三十三、坂東三十三、秩父三十四が著名で合わせて百番観世音という。
そんな遠くまで出かけられない人々は三十三観音が一か所にまとまった信仰の場を熱望していたはずである。
これまで何とも思わなかった「でかける」ということが段々とたいへんになるとその気持ちはよくわかるようになる。
室町時代にはすでに三十三観音の形態が存在していたというから石工の家にはそれらの観音の持物や姿が絵図面としてつたわっていたのだろうけれど貞治は願王禅師に教えられたり、更に工夫して独自の境地を開拓した。
貞治は海岸寺に百体佛を作っている。
海岸寺はそのまえにも三十三観音を別人に作らせている。
ぜんぶでどれだけあったのか寺の裏山全体に林立していたらしい。
それが廃仏毀釈にあって壊されバラバラになってしまった。
今になって台座に残された名前と石仏を組み合わせてもまちがいが出てくる。
他の寺をみても首のない貞治佛にあとから首を作って合わせたものやどうみても蓮の台と乗っている仏像の大きさがあっていないものまである。
それらのものは後からつなぎ合わせたものに他ならない。
いまとなって特定するのは困難である。
貞治の時代は江戸時代の爛熟期、諏訪藩は例の二の丸騒動のころである。
温泉寺には沢山の貞治佛が残されているが、かつて高島城の能舞台であった本堂の前に、二の丸騒動が収まった頃の家老千野殿の願主による延命地蔵大菩薩が残されている。
まさに貞治絶頂期の最高傑作である。
もはや石仏とはおもえない。
香を焚き経文を唱えながら作仏したといわれるように信仰という部分を加えて一歩進めた石工である。折角貞治が細工帳で残した名前があるのだからその名前に従いたいけれど、名前にこだわることはない。
こうして見ていると名前などどうでもいいという気になってくる。

秩父の二十五番札所久昌寺に行った時のこと、お地蔵さんの収まったお堂の格子に「おんかかかびさんまえいそわか」とひらがなで書かれた半紙を糊で貼りつけているおばあさんにあったことがある。
ただお地蔵さんの前でだまって手を合わせる、それだけではとても足りない何かが起ったとき、少しでもおおくのご利益が欲しい、そう思ったとき、いてもたってもいられないものだ。
信仰心という一歩はそのあたりから生まれるものではなかろうか。
住持におそわったのだろうか、あるいは毎年そうしているのかもしれないが
「ああそうだ、ひたすら信仰はこういうものだ」
信仰に意味などいらぬものである。


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2014.08.10(07:42)|貞治仏コメント(0)TOP↑
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