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最寄りの駅といえば西武新宿線の玉川上水である。
東大和市、小川、小平と続き新宿に至っている。
玉川上水とは文字通り江戸時代の上水、玉川上水が通っているからである。
隣の東大和市は以前青梅橋という名前であった。
青梅街道と玉川上水(野火止用水)が交差していたが昭和三十八年に暗渠になって橋はなくなっていた。
「青梅橋ってどこにあるの」の問いには答えられないからなのだろうか、こういう名前は残してほしいものである。
江戸時代の小川は青梅街道の宿場町であった。
この辺りには宿場町にはつきものの大親分がいたという。
もう忘れ去られているのだが小川の幸蔵や小金井の小次郎である。
江戸幕府は関八州に大藩を置かず十万石以下、多くは二、三万石で回りには天領や旗本領、寺社領を配した。
戦国時代のように領土拡大を恐れたからである。
当然警備は弱いものになり顔役、博徒の類が幅を利かせることになる。
領地で悪事を働いても天領や寺社領に逃げ込めば支配違いとなって捕縛をあきらめざるを得ないからだ。
博奕は家康の時代から厳しく禁止していて訴え出れば負け金を取り返し勝ったものは百日の牢としたが効果はなかった。
吉宗の時代には博奕をしたものは過料とし胴元は遠島、またいかさまも遠島となった。
しかし訴え出れば鼻つまみものにされ、博奕もできなくなってしまうわけで絶えることはないのである。
博奕というものは祭りや行楽地の娯楽でもあったのである。
文化二年には関東取締出役、いわゆる八州廻の制度ができ天領や寺社領にかかわりなく取り締まれるようになる。
幾つかの村をまとめて小組合として組頭を置く、それを十ばかりまとめて寄場組合を置き廻状や道案内の拠点とした。
そんな場所は土地の情報が集まるところであった。 
小川の幸蔵が山口観音で捕縛されたのは明治三年である。
その様子を時の蔵敷村名主が里正日誌に記している。
十月八日の申立書による幸蔵の供述によると幸蔵は、「田畑壱町三反歩、持家、三人暮。父幸八は二八年前十一歳無の時、悪事により終身八丈島へ流罪。その後兄弟五人を母の手で育てられる。成人後は父幸八の子分、博徒仲間が私宅に出入りし自然に悪事に染まる。子分百人ほど持つ親分になって遂に長脇差を帯び遠近を徘徊する」とある。
また悪事取調書による悪事とは
① 八年前茶屋をやっていた頃、村の百姓平蔵がやってきて酔った勢いで好物を呉れといったところ鶏卵を出したが深酔いで帰宅した。翌日勘定として七十五両の請求に驚き、曰く好物というので異国の雁の玉子を二つ取り寄せた。一つ二十五両二つで五十両、それに酒代十五両合わせて七十五両(ママ)だという。家の者驚いて五十両はらい引き取ってもらった。
② 八、九年前幸蔵とは実の叔父にあたる村の百姓喜右衛門が度々意見するのを遺恨に夜中抜身をもって押し入り質帖を切り破り乱暴暴論、仕方なく二十両差し出したがこんなことが度々あった。
③ 七年前谷保新田の伝兵衛に度々ゆすりを掛けて金子百両あまり押借する。
④ 去る辰年中ごろ村方の百姓力蔵が居酒屋で酒を飲み熟酔につけこんで博奕の貸五十両を返せと迫る。
大勢だったので詫びを入れ三十両支払う。
⑤ 今年三月中頃、村の阿波屋の倅武太郎が清水村の彦右衛門の店に用があって出かけたところ幸蔵と居合わせ、先日の博奕で六十両の貸があると強談、覚えがないと掛け合うが増々不法を働き仕方なく三十両支払うる
附けて幸蔵の父幸八は人を殺して欠落し召し捕えられて八丈の遠島の折、夜中に逃げ出し追いかけた島役人ひとりを切り殺し一人に疵を負わせ自分もその場で自害した。
これは累代に積もる悪者につき厳刑の処置を願うとある。

玉川上水は小川で野火止用水を分かち小金井にながれる。
小金井には小次郎という親分がいた。
言い伝えによると
小金井小次郎は関東一円に三千人もの子分を持つ大親分で関の小次郎といい、小金井村の名主関勘右衛門の倅であった。
一回目の捕縛では佃島の牢送り二回目は安政三年三十八歳の時喧嘩の罪で三宅島へ流されている。
十二年後慶応三年赦免されて帰島し調布で飯盛茶屋をした。
獄中で知り合った新門辰五郎や清水次郎長と親交があったといわれる。
さて天保十一年春に小次郎の兄が博奕で負けた折の処分を巡って小川の幸蔵と喧嘩になった。
小次郎は十二人の子分、幸蔵は二、三十人の子分をつれて二つ塚稲荷で大喧嘩となり双方とも死人を出した。
結果は小次郎側が灰の目潰しで勝ち幸蔵の縄張りを奪ったらしい。
ところがこの小次郎は三宅島で暮らしたころ、島では難儀していた水のために溜池を作たり乳牛を飼育させるなど島の暮らしに貢献している。
明治になってからは若い者を連れて再び三宅島に戻り島の開発にあたって、明治十四年、六十四歳でなくなっている。
二つ塚というのは玉川上水が府中街道と交差したところで古来は一里塚というけれど今は無くてバス停の名前だけが残っている。
小金井小次郎と小川幸蔵の喧嘩は有名らしく、話は良く伝えられているのだが、この天保十一年は先の里正日誌による幸蔵の記録とは時代に段差がある。
天保十一年といえば幸蔵が十三、四歳ということになり幸蔵の父、幸八の事ではないかと思う。

ここに面白い本がある。
「驚きの江戸時代」高尾善希柏書房で、幕末から明治維新の頃を回想した日記などを集めたもので面白い話を良く集めている。
日記というものは時代を客観的に眺めているから恰好の資料でとなる。
その中に菅原道明の「古希来」という自伝から引いた小川の泥棒宿の話が載っている。
菅原道明は肥前の人で長崎師範学校を出て明治十一年西多摩郡の青梅小学校に校長として赴任することになり、途中小川で日が暮れてしまい中宿というところで宿を取った。
その宿では番頭から相部屋を頼まれ蚕紙商と老婆と三人で寝ることになった。
翌朝気が付くと財布の中の紙幣がない。
老婆にやられたのである。
急いでいたから役所に届けるのも番頭に頼み青梅に向かった。
菅原道長が校長に赴任後郡長である砂川源五右衛門による歓迎会が開かれ宴たけなわ席上で小川の泥棒宿の話をすると、郡長曰く
その宿は付近きっての博徒の親分某の妾の内職場で金持の旅人とみると子分で絞めてしまう。
構えも立派だし庭園も広く女も垢抜けしたのが三、五人いる。
旅人は良い宿に着いたと喜び美女の酌で酔い潰れて前後も知らぬ間にあの世に旅立たせるのは訳もない。
今年も三千円もった絹商が殺された。
知っているものは泊まらないけれど不案内の者は泊まって難にあう云々。
何故その筋では手を掛けぬかというと、手を掛けると何百という子分を持っている親分だからどんな大騒動が起こるかもしれずその筋では知っていて知らぬふりをしている。と
云われた。
昔は将軍のお膝元、今は大政府の脚下というべき地で昔の安達ケ原のような恐ろしいことが今でも行われているのかと大いに怯えたが郡長は笑っているばかりであった。
信州の長脇差、関東の無宿者というが甲武の博徒でその筋でも困っているようだ。私は恐ろしい旅の空であるわいと思うた。と結んでいる。

この博徒の親分を著者は小川幸蔵だと言っているが明治三年には捕縛されているのだから時代が合わない。
だが幸蔵には実の弟が居るうえ子分はごろごろいたのだから似たようなものである。
この頃は世の中かなり物騒な時代であったことに違いなくこんな宿屋が存在していたことは確かだろう。
中宿は今の小川西町の付近である。

三月二十日 小川の幸蔵続き

さて、明治三年に捕まった幸蔵はどうなったのだろうか。
さぞや村の衆は枕を高くして寝られることになり大安心で仕事に精を出したのだろうか、やはりちょっと気になるのは多くの子分衆である。
親分が居なくなったとしても子分はたちまち島を受け継いで同じような悪事に走るのではなかろうか。
ましてこのくらいの大親分になると自らは手を下さず配下に悪事をさせてその上前をはねていたのだという。
子分にとっては勿怪の幸いではなかったか。
明治になって江戸幕府は崩壊し小川村は韮山県となる。
あの伊豆の韮山である。
少々遠すぎて行政は滞ったのではなかろうかと察するけれど、ともあれ捕まった幸蔵は翌年五月、准流五年の刑に処せられる。
その後どんな悪さをしたのか明治十五年にも捕縛されて同十七年に八王子警察署で病死したという。

小川上宿のあたりに医王山小川寺という寺がある。
この寺は古くないけれど庭になかなかいい紅葉の樹があり石仏の飾りとなっていて風情がいい。
カメラを持って良く訪れる場所なのだがその寺に「侠客小山幸蔵之碑」がある。
これまで何回も訪れているのに紅葉に目を奪われていたのかずっと気が付かないでいた。
ん、博徒の碑・・・何故?
悪人であるはずの博徒が何故名を残すのだろうか。
国定忠治にしろ、大前田の英五郎、清水次郎長・・・・いや泥棒であるのに鼠小僧や弁天小僧、日本左衛門などなどあまりにも有名すぎるじゃないか。
芝居や巷談となって尾ひれがつき娯楽を求める民衆の憂さ晴らしとなって広まっていったであろうことは想像できるにしても地域で鼻つまみ者であった幸蔵が何故石碑になっているのだろうか。
どうやら当時の世情を考えると、博奕打ちの徒党だけでなく、世直しと称する一揆や農兵などの屯集などという集団の村荒らしが横行した時代である。
出役は威張るばかりでその力は弱く不穏分子には村を上げて自力で立ち向かうしかなかったのである。
博徒の悪業よりよその村からやってくる一揆や打ちこわしの被害の方が甚大であった。
小川幸蔵は博徒の無宿人とはいえ、村は四番組に居を構えることを黙認し代わりにひとたび村に事あれば抑えの助力を求めるような存在であった。
その筋でも次々と浮上してくる不穏な分子を牽制する布石として利用していたようであるのだ。
悪徒といえども被害を受けるものもまた博奕打ち、全くの善人村人が被害にあうことは滅多になかったのである。
「夕べ喧嘩は村芝居を見るより面白かった」などという話が残っているくらいだから。
慶応二寅年、秩父に起った打ちこわしが柳窪を襲い田無村に迫っていた時、田無の半兵衛はこれに討ち向かうべく人を集めて、また博徒小川幸蔵等を呼び鎮圧にあたった。
「人々命を惜しまず働き一揆勢八人を討取り十三人を生け捕りにした」という記録がある。
無宿人であった幸蔵は村に住んでいて村の戦力として重宝されたのである。
これを機に帰村を許されたのだろう、明治三年の幸蔵捕縛に当たっては「当時無宿小川幸蔵」と記されている。
蔵敷村里正日誌に明治二年韮山県役人が幸蔵を呼び出し御用の向きを伝えている記録がある。
「最寄りの支配所において悪党共が立ち回らないように平日心を用い、万一の場合は村役人と一緒に召し捕えよ」というもので村方へ入用に負担を掛けてはいけないことと、増長しないことを条件に公役を得たのである。
だがしかし明治三年にはずっと前の罪状を理由に捕縛されているのだから、村を一揆から救ったとはいえ、このまま放置すれば博徒としての徒党はますます大きくなり村中の大騒動に発展する恐怖を考えると捨てておけないと判断されたのだろう。
博徒というものは善悪ぎりぎりのところで生きていたといえそうである。
石碑に名前を連ねた人たち、世話人十四人、親類五人、当所世話人三人、発起人二人、賛同人三十五人の地域を見ると近隣の村はもちろん青梅、深谷、横浜、八王子、勝沼などの地域も見える。
小川幸蔵の縄張りがいかに大きかったことか、この人たちは果たして幸蔵の子分のゆかりだったのだろうか、あるいは記録には残っていないような善根の話が伝わっていて、それに賛同した人たちだろうか。
明治二十九年十一月の銘がある。
P1070495.jpg

小川に伝わる話では幸蔵はもらいっ子の娘がいて秀吉という婿を貰い名主の言いつけで草取りなどをしていたようだ。
博徒でも蔵を持っていたが壁は壊れて繩が見えていたというから貧乏していたのか博奕に入れ込んでいたのか。
闘鶏や闘犬もやっていて、普段は名主のもとで擁護されていたようだから帰村が許された頃の話だろう。
婿の秀吉は賭け事など一切やらないまじめな働き者であった。

伊藤小作『郷土夜話』
「……私の主人の父からきいた話ですが、そうですネ、幸蔵は未年ですから生きていれば百才以上でしよう。名主の弥市郎さんに使われて草刈り等をしたりしました。草刈りをしても自分はろくに刈らないで、人にやらせる。当時こんな謎がありましたよ、幸蔵はそれでも蔵持ちだつたが『幸蔵親分の蔵とかけて何と解く』『さむらいの腰のものと解く』『心は』『心はさわればきれる』というわけで、幸蔵の蔵の壁土は落ち竹の骨があらわになつて縄がでている。それにさわると縄がきれる………というのだそうです。幸蔵の家は小川四番の通りにあつた。遊び人というか、侠客というか、ばくちが好きで、闘鶏、闘犬までさかんにやつたらしい。」「すい瓜畑にむしろを十何枚もしいて、そこでばくちをやるのです。着物をきていたので胸元のふところからシヤモが首を出している。そんな男が方々から集つて、夢中になつて鶏にけんかをさせるのです。夜つゆにぬれてからだがひえるから、ばくち打は長生きしないといつたものです」「ばくちが大流行で困つたものでしたが、別に何もたのしみのない時代のことで、仕方がなかつたのでしよう」(中略)竹松おこうさんの義父秀吉さんが幸蔵に所望されてその娘さん(もらい子らしい)にめあわされ養子となつて聟入りした。此の人は謹厳でばくちは一切やらなかつたが、身を粉にして働いた。雪の中を使い走りをしたため膝おうにかかり、着物のすそがあたつても痛んだ、とうとうびつこになつてしまつて、実家に帰つて来た。」

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2016.03.30(14:45)|未分類コメント(0)TOP↑
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