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写真や絵手紙など牛鳴HPの玄関先です「牛鳴さんちのたからもん」

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DSC_1769.jpg
石仏を一体造るのにどれだけの時間がかかるのだろうか。
まず石を探さなければならない。
どこにでも転がっているわけではない。
かなりの時間が必要だろう。
いや、それ以上に石を運ぶのにいまのようにクレーンやトラックが有るわけじゃないんだから
大変な作業である。
さて彫り始めても鑿は一日で減ってしまう。
毎晩炭で焼いて叩いて焼き入れしなければなるまい。
一人でやるわけじゃないにしても大変な労力である。
守屋貞治が二十歳から造り始めたとしても四十数年、その間に三百三十余体をこしらえたということは驚異的なことである。
しかも、そのすべてが手抜きのない芸術作品である。
まさに脱帽である。
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2014.08.24(17:16)|貞治仏コメント(0)TOP↑
DSC_1072高遠建福寺
願王地蔵尊の設置場所である。
なにか違和感がある。
五十円切手に二円を足して
いけねぇ、ハガキじゃなかった
と三拾円分の切手を探してきて貼り付けたよ郵便・・・
もう貼る場所がないよ・・・
そんな置き方じゃないか

貞治佛といえども石仏
やはり野に置け貞治佛・・・
2014.08.17(10:33)|貞治仏コメント(0)TOP↑
私の生家から南西の位置に守屋山がある。
守屋山は諏訪神社の御神体といわれている。
守屋貞治はその山の麓の村、塩供の生まれである。
守屋山を故郷では単に守屋と呼んでいた。
守屋に雲がかかれば雨が降る・・・
杖突峠を越えた先が守屋である。
中学生になると村の子供たちだけで守屋に登りキャンプをした。
守屋貞治を知ったのは
ずっと後のことでつい先だってのことである。
私の義兄は石屋であった。
石仏を作るような石屋ではなく墓石を建てたり石垣を積んだりする石工である。
簡単には動かせない石が相手である。
ひがら一日石を眺めて煙草をふかしている。
気の長い仕事である。
守屋貞治は三百三十余の石仏を作ったことは驚異的な量である。
2014.08.15(08:16)|貞治仏コメント(0)TOP↑
2014.08.15(07:59)|貞治仏コメント(0)TOP↑
8-4-11円明寺son (7)
以前のはなしだが、Yさんが故郷の姫路で同窓会があるため帰省するという話をきき、姫路の近くにある貞治仏を私の分までみてくれるようにお願いしたことがある。
飛んでゆきたいところだが兵庫は遠すぎるからせめて撮ってきた写真でも見せてもらおうというわけである。
貞治仏は故郷に近い信州や甲斐に大半が集中しているのだが、遠いところでは伊勢・周防・播磨・但馬にあることが知られている。
但馬の和田山にある円明寺は地図で見ると姫路から日本海側に少し上ったところである。
曽根原氏の紹介するところでは貞治が円明寺の光隣和尚の要請で延命地蔵尊を彫っていたが仕上げ間近になって顔に石の傷が出てしまった。
途方にくれる貞治に光隣和尚は「そのままでいい」と慰めたのだという。
実は光隣和尚の顔にも同じ所にしみがあったというのである。
せっかく行くのならそれを確かめてみたかったのである。
貞治仏を世に紹介した曽根原氏によると光隣和尚の顔にもしみがあったという証拠に円明寺に伝わる実門の描いた光隣和尚の肖像画を挙げているのだが、氏の本の写真では画像が粗くそのしみは詳細にみえない。
Yさんが住職に聞いたところではその肖像画はどこかにしまったままになっていることと、その顔にしみがあるというような話は伝わっていないそうである。
円明寺には願王禅師と貞治と実門(願王禅師の弟子で絵師)も同行したことがわかり、実門は絵にしみまで描いたことは想像に難くなく、今でもしみ取り地蔵として伝承されている由縁であるとおもうのだが。
2014.08.14(08:03)|貞治仏コメント(0)TOP↑
禅宗では仏像崇拝よりも只管打坐を重んじる。
仏像よりも祖師像をより重く見ている。
それは師資相丞という禅の宗旨であるからだろう。
師はその人に似るように、仏はこの世にいないから人よりは威厳にみちた顔に仕上げる。
これは願王から学んだものとおもう。
DSC_2339.jpg
温泉寺の貞治佛には願王像ともいえる願王地蔵尊や雲水である蔵六座主を象った延命地蔵がある。
きっと似ていたにちがいない。
2014.08.13(08:23)|未分類コメント(0)TOP↑
DSC_2410_20140812072221efe.jpg
さて、貞治とても生まれながらの天才ではない。
それは初期の石仏をみれば明らかである。
一目でこれは貞治佛とわかるような作風になるのはやはり願王禅師に遭遇するあたりではなかろうか。
顔以外の違いはなかなか判別できるものではないけれど顔だけは違いがはっきりと分かる。
その貞治の晩年は目が悪くなってついに作仏することができなくなるのは温泉寺の西国三十三観世音を作っていたときである。
天保二年六十七歳である。
二十三体までこしらえたところで鑿が持てなくなってしまった。
のこり十体は弟子によって完成させたらしいけれどどれがそうなのか・・・
この観世音を見ていると光背には鑿の跡も残っていて多分に未完成の観がある。
それに目の吊りあがり方がずっと穏やかである。
これは晩年の変化なのか弟子によるものなのか
記録はない。
写真集のかたちにして比べると違いが良く分かる。
2014.08.12(07:25)|貞治仏コメント(0)TOP↑
石工はその労力と時間をかけた割には出来あがったものに自分の名を刻むようなことをしない。
それはあれだけの優れた仏像を造った貞治とておなじである。
ただ、生涯に作った三百三十余の作品を思い出して記録に残していた。
それが「石仏菩薩細工」である。
これが残っていなければ貞治が知られることはなかっただろう。
記録といっても石仏の名前と場所、後は願主だけである。
場所は村の名前か寺の名前だけ、願主に至っては「婆々」といった塩梅。
此の手掛かりだけで探しだした功績は曽我原吉郎氏である。
「貞治の石仏 幻の石工を求めて」講談社昭和44年11月に詳しい。
廃仏毀釈で破壊されたまま捨てられていた状態から発掘されたものまである。
氏は会社勤めの傍ら始めた宝探しだったわけだがその功績はおおきい。

守屋貞治の家系は守谷である。
戸籍が作られた時のまちがいではないかといわれている。
私は推察する。
貞治は高遠の塩供である。
諏訪から杖突峠を越えて高遠に下る途中の村である。
諏訪には諏訪神社の神官で守矢という神長官家がある。
長く続いた諏訪神社の運営を牛耳っていた。
何らかの縁があったのかもしれない、同じ姓を名乗ることはできないはずで一字屋に変えたのではないか。
名字を名乗れるほどの家系であったろうし、そうでなくても苗字を買える財力もあったと思われる。

2014.08.11(12:35)|貞治仏コメント(0)TOP↑
DSC_0260.jpg
(山梨県 津金 海岸寺 百番観世音)

貞治は地蔵の他に三十三観音を作っている。
江戸爛熟期とはいえ、たびたび襲ってくる飢饉、疫病に人々は仏に頼るしか道は無く観音経は熱狂的に信仰されていた。
三十三観音はその人その立場に応じて三十三とおりに姿を変えてあらわれ救ってくれるというもの、西国三十三、坂東三十三、秩父三十四が著名で合わせて百番観世音という。
そんな遠くまで出かけられない人々は三十三観音が一か所にまとまった信仰の場を熱望していたはずである。
これまで何とも思わなかった「でかける」ということが段々とたいへんになるとその気持ちはよくわかるようになる。
室町時代にはすでに三十三観音の形態が存在していたというから石工の家にはそれらの観音の持物や姿が絵図面としてつたわっていたのだろうけれど貞治は願王禅師に教えられたり、更に工夫して独自の境地を開拓した。
貞治は海岸寺に百体佛を作っている。
海岸寺はそのまえにも三十三観音を別人に作らせている。
ぜんぶでどれだけあったのか寺の裏山全体に林立していたらしい。
それが廃仏毀釈にあって壊されバラバラになってしまった。
今になって台座に残された名前と石仏を組み合わせてもまちがいが出てくる。
他の寺をみても首のない貞治佛にあとから首を作って合わせたものやどうみても蓮の台と乗っている仏像の大きさがあっていないものまである。
それらのものは後からつなぎ合わせたものに他ならない。
いまとなって特定するのは困難である。
貞治の時代は江戸時代の爛熟期、諏訪藩は例の二の丸騒動のころである。
温泉寺には沢山の貞治佛が残されているが、かつて高島城の能舞台であった本堂の前に、二の丸騒動が収まった頃の家老千野殿の願主による延命地蔵大菩薩が残されている。
まさに貞治絶頂期の最高傑作である。
もはや石仏とはおもえない。
香を焚き経文を唱えながら作仏したといわれるように信仰という部分を加えて一歩進めた石工である。折角貞治が細工帳で残した名前があるのだからその名前に従いたいけれど、名前にこだわることはない。
こうして見ていると名前などどうでもいいという気になってくる。

秩父の二十五番札所久昌寺に行った時のこと、お地蔵さんの収まったお堂の格子に「おんかかかびさんまえいそわか」とひらがなで書かれた半紙を糊で貼りつけているおばあさんにあったことがある。
ただお地蔵さんの前でだまって手を合わせる、それだけではとても足りない何かが起ったとき、少しでもおおくのご利益が欲しい、そう思ったとき、いてもたってもいられないものだ。
信仰心という一歩はそのあたりから生まれるものではなかろうか。
住持におそわったのだろうか、あるいは毎年そうしているのかもしれないが
「ああそうだ、ひたすら信仰はこういうものだ」
信仰に意味などいらぬものである。


2014.08.10(07:42)|貞治仏コメント(0)TOP↑
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貞治佛は佉羅陀山地蔵大菩薩がおおい。
佉は字引きでみると「きょ」とある。呉音では「こ」。
普通は「きゃらだせん」と読んでいるけれど山は「せん」・・呉音である。
すると「きゃらだせん」ではなくて「こらだせん」と呉音で読むのが正しいかもしれない。
佉羅陀山とは須弥山を取り巻く七金山の一つで延命地蔵菩薩経の始まりに出てくる。
如是我聞一時佛在佉羅陀山與大比丘衆萬ニ千人倶・・・
地蔵菩薩の住む光明の山だという。
貞治は温泉寺の住職願王禅師に従っていた。
願王禅師は地蔵の信仰を精力的に各地に広めた人である。
貞治に地蔵が多いのはそのせいだが、まてよ温泉寺は臨済宗妙心寺派、禅宗である。
禅宗でも当時は地蔵信仰を勧めていたのだろうか。

そもそも地蔵菩薩とは何だろうか。
地蔵とは乞叉底蘖婆(きしゃちぎゃは)kshitigarbhaを意訳したものだという。
釈尊滅後如来の附属を受け弥勒の出生まで六道衆生を教化するための大悲の菩薩であると仏像図鑑にある。
その形も記されている。
秘蔵記には、白肉色左手に蓮華、上に幢幡あり、右手に宝珠
不空軌には、内に菩薩の行を秘め外に比丘形を現し、左手に宝珠、右手に錫杖執持
不空羂索経には、手に蓮華を執り台上に宝印あり、右手掌を揚げ半跏趺座す
八大菩薩曼荼羅経には、左手を臍下にして鉢を持し右手之を覆う、また智泉様なる像は左手に宝珠、右手は与願になし比丘形なり
胎蔵界曼荼羅地蔵院の像は、菩薩形肉色、左手蓮に如意宝幢あるを持し、右手に宝珠を乗せ胸にあり、蓮に座す

貞治が温泉寺の住職であった願王禅師にであったのはいつごろかわからないが地蔵信仰を広めていた禅師に近づくことは自然の成り行きであったはず。
願王も人並み外れた優れた地蔵をつくる貞治をもって各地の地蔵信仰を教行する必要があった。
願王は「南無地蔵大菩薩」という書を多く残している。
貞治の残した細工帳を見ると大菩薩というふうに大が出てくるのはその三十番目からである。
十六番目に地蔵大菩薩の例があるものの三十番目の延命大菩薩から急におおくなる。
細工帳が年代順ではないかもしれないが記録というものはおおよそは順を守るものだろう。
大菩薩といういい方が多くなるところを見ると、そのころ願王禅師とあっているのかもしれない。
地蔵大菩薩といういい方は願王禅師に従ったことがうかがえる。
建立した寺側に残された史料には単に地蔵建立云々としか書いてないし、仏像図鑑などにも大菩薩といういい方はない。
大は優れたという意味である。
2014.08.09(07:46)|貞治仏コメント(0)TOP↑
DSC_2233.jpg
伊那箕輪の法界寺に貞治佛がある。
この石仏は造られてからずっとこのお堂に入っていたようだ。
いま彫りあがったばっかりのように新しい。
なんと見事な彫刻だろうか
いまでも信仰されているのだろう
帽子を被せられてお供え物があがっている。
お地蔵さんにぼうしや涎かけなどをつけてやるのは
身近にかんずるからだろうか
手前に石の椀がある。
傍らには石がおいてある。
べつのもう一体のお地蔵さんもおいてある。
にぎやかなことだ。
そりにしてもこの座っている蓮の華の見事さはどうだ
一枚の花弁を踏んでいる。
踏まれた花弁は弾力があるがことく・・・
よくぞ残された宝である。
2014.08.08(09:30)|貞治仏コメント(0)TOP↑
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Author:牛鳴

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