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写真や絵手紙など牛鳴HPの玄関先です「牛鳴さんちのたからもん」

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DSC_2216.jpg
ひとの心には二つの顔がある。
顔が亡くなっても仏はほとけ
何とかつなぎ合わせて形にする・・・
破片を捨てておくなんてことはしない
片や、石仏はただの石
とうの昔に墓だったものも
今はただの石ころ
捨て置け

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2014.07.29(07:53)|石仏賛歌コメント(0)TOP↑
真福寺の墓地に大きな如意輪観音があるというので、この寺なら何回もお邪魔している、そんなものあったかなぁ、見落としているかもしれないと行ってきた。
私はいつも私道とは知らずに車を走らせ境内の片隅に停めて写真を撮っていた。
真福寺の裏山は墓地になっている。
探してみたが見当たらない。
裏手には観音堂があって何時もは閉まっている。
正月の護摩の時だけ開帳しているのだという。
ひょっとしたらこのお堂に納まっているのかもしれない。

三小の東側は青梅街道に接している。
その更に東側は山で木々が覆いかぶさっている。
そこは堂山という墓地で、ここも真福寺の墓地であった。
真福寺は多摩地方には22もの末寺を持つ真言宗豊山派の寺である。
かつては三小のある屋敷山からこの堂山まで寺の所有だったのかもしれない。
学校の東側にある入りの天満宮も更に先の熊野神社、八幡社、稲荷社なども明治以前は真福寺持ちであったという。
青梅街道は屋敷山と堂山の間を割り切りにして通したもののようだ。
学校というものは近くに墓地などあろうものならたちまち誰かが幽霊話をでっちあげる。
子供は天才だからねぇ
それにしても小学生は大変だ、毎日山に急坂を登らなければならない。
そんなことを思いながら堂山を登った。
くだんの如意輪観音は十王堂の隣に立っていた。
石像にしては珍しい一面六臂で堂々たるものであった。
総高154センチ慶安五(1652)丑女敬白と銘にある。
素晴らしい石仏であった。
これほどの石仏はちょっとないだろう。
丑年生まれの女とはいったい誰だろうか。
念仏講のような女性の集まりが江戸時代の初期には存在していたのだろうか。

P7030055.jpg
2014.07.17(08:31)|石仏賛歌コメント(0)TOP↑

その日の帰り道、隣の原山地区にお伊勢の森神明社という神社がある。
新しい建物でそこには何もないけれどそこから北に少し入ったところに二基の石仏が並んでいる。
その日の帰り道、隣の原山地区にお伊勢の森神明社という神社がある。
新しい建物でそこには何もないけれどそこから北に少し入ったところに二基の石仏が並んでいる。

P7040082.jpg

一つは馬頭観音ともう一つは庚申の青面金剛像である。
畑の中の細い道の角で、如何にも寄せられたという風に植木に隠れるように並んでいる。
この庚申塔の基部に椀状穿痕が認められる。
線香立ての凹部の右手前に二つの凹みがある。
丁度雨だったので写真でもわかりやすい。
P7040086.jpg


庚申塔には寛保元年(1741)、馬頭観音は寛政5年(1793)の銘がある。
もとは庚申塔だけで北に向いていたという。
腰から下の病に効くとしんこうされていた。
建立年月もさることながら幕末から明治初期にどんな形で何処にあったかということを知りたいのだが今となっては手掛かりが少ない。
馬頭観音は馬の墓である。
里にあるものは道しるべを兼ねているものが多い。
山にあるものは馬の捨て場にたてられたもの。
仏像と異なり子供の遊ぶ場所ではなかった。
椀状穿痕が子供の叩いたものとすれば馬頭観音に少ない理由ともいえる。
それに明治の廃仏毀釈にも受難を逃れたといえる。
同じ場所なのに馬頭観音だけに椀状穿痕がないのは近年になって移動したものであるからだろう。
そんな仮説を温めておく。
この武蔵村山というところは石仏の宝庫である。

2014.07.15(09:16)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
萩の尾のお地蔵さん

武蔵村山の市役所近く、青梅街道向かって二基の石仏が立っている。
良く通るけれど車を寄せられないので何時もさすが古い街道筋だとおもいつつ素通りしていた。
そうだ、市役所に置いて歩けばいいんだ。
そんな気になかなかならなかったのは走りながらのちょっと見には椀状穿痕らしきものは無い様だったからである。
そこは萩の尾薬師堂で青梅街道に向いて立っていたのは庚申塔と宝篋印塔の壊れた基部であった。
それには椀状穿痕は認められなかった。
隣にお堂があって覗くと大きなお地蔵さんが立っていた。
雨風をしのいでいるから乾ききって埃にまみれて白っぽく粉がふいたようだ。
ああ、水を欲しがっておられる・・・

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それはさておき、その台座を見ると椀状穿痕が認められる。
この街道筋のほとんどの石仏には椀状絵穿痕が認められるのだ。
よくみないとわからないが台座の花立の凹みの左前にはっきりした椀状穿痕がある。
更にこの台座にはセメントで補修した跡がある。
その補修が何故なのか知る由もないが幾つも椀状穿痕があってそれをセメントで埋めたと受け取れる。
更に台座の上部に球形台があり、その側面に叩いてあけたと思われるくぼみが幾つも見つかる。
そればかりではない蓮の花のうてなにぐるっと取り巻いている。
それからいっても椀状穿痕にちがいあるまい。
この地蔵が何時からここにあるのか説明はない。

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街道に向いて立ってた庚申の青色金剛像には椀状穿痕は認められないものの、その顔を見ると目鼻がわからないほど痛んでいる。
雨風が削ったものとはとても思えない新しい傷である。
誰かが叩いて傷をつけたとしか思えない。
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馬頭観音や青面金剛の顔は競馬の賭けが当るとげんを担いで掻きとった破片を財布に入れるという話を聞いたことがある。
もしそうだとしたら馬鹿なことである。
ま、椀状穿痕とは切り離しておきたいとおもう。

2014.07.13(12:40)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
P7040103.jpg
庚申塔の猿は様々な形をしている。
一匹もいれば三匹、群れをなすものまである。
恰もひとのように多彩な表情やしぐさのものもいれば、単なる記号のごとく猿なのか虫なのかわからぬものまである。
同じ石仏でも仏像とちがい神様ではないからその表現は自由闊達なのである。

近くの寺に三猿があるので訪ねた。
さいわい糠のような雨がふっているからいロケハンとしては都合がいい。
寺の庭は綺麗に手入れされていてさすがに禅寺らしい。
雨のせいかひっそりとしている。
探したけれど庚申塔はなかった。
裏山にある広い墓地までくまなくさがしたけれどみつからない。
すぐ近くには里山の暮らしを体験できる古民家の施設があるのでそこまでいって聞いてみたが知らないという。
どうにも諦めきれないのでもう一度寺に引き返し思い切ってベルをならして聞いてみた。
若い大黒さんが出てきて今は博物館に保管をお願いしているという。
何だ、ない筈だ。
博物館は照明は暗くそのうえ写真を撮るとなると一筆書かされる。
所有者が別にいることにこだわっているようだ。
寺のものということだが、もともと庚申塔は庶民のもの、路傍に据えてあったものだ。
世の中変わったものである。

横向きの三猿庚申塔は珍しいのだ。
いまごろ作った石工はあの世で苦笑いしいるかもしれないなぁ。

「石になった猿たち」に80枚ほどの写真が必要だが
もう少し欲しいところだ。

2014.07.12(08:00)|道端の神 道祖神庚申コメント(0)TOP↑
P7030063.jpg
武蔵村山市の東の端、東大和市と接する所、神明に大日堂があって中に金剛界大日如来の石像が収まっている。
武蔵村山市は大日如来がおおく市内に二十二基もある。
この大日如来は享保八年(1723)の銘がある。
如来像に似会うどっしりとした肉付きのよい造りである。
此の場所は墓地の中で堂宇はトタンで囲ったものだから初めからこんなお堂であったかどうかはわからない。
なかなかいい顔立ちをしているけれど堂宇に収まっている割には傷が多い。
石仏は明治の廃仏毀釈で受難しているから傷があるものが多い。
そのせいかどうかはわからないが。
この台座に椀状穿痕が認めれる。
幾つもある。
今は誰も気にとめない椀状穿痕である。
この大日堂は普段鍵がかけられている。
二枚の戸を鎖でつなぎ南京錠がかけてある。
多分、縁日に開いて念仏でも上げるのか。
閉じられた二枚の戸は五センチほどの隙間があって写真を撮ることができない。
隙間ごと撮ったものを左右をトリミングした。
昨今、石仏は文化財ということで保管されることが多い。
それはいいことなのだがそのことをきちんと案内しないと空振りにおわってしまう。
地域の教育委員会か学芸員かしらないが頼みますよ・・・


P7030064.jpg
2014.07.10(08:21)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
P7030036.jpg
墓参りには大人も子供も全員で行く。
お寺から頂いた施餓鬼幟にめえだま(米の団子)、線香にお薬缶の水などを持ってゆく。
子供の役目は施餓鬼の幟だろうか。
もとより墓参りの意味などわかっていないけれどなんとなくうれしいのはご馳走が期待できるからである。
わにわにするな!
「お墓で転ぶと鎌いたちに食われるぞ」なんていわれてしゅーんとするのである。
お墓には烏が数羽騒いでいる。
不気味である。
夜になると火の玉が飛ぶと誰も近寄らない。

長円禅寺は青梅街道の武蔵村山にある。
大きな曹洞宗の寺である。
武蔵村山は青梅街道の馬次場として栄えたせいか石仏の宝庫である。
石仏、馬頭観音、庚申塔なと残っていてその多くに椀時用穿痕が認められる。
長円寺の本堂裏に墓地がある。
そこに三ツ木の地頭、大河内氏の墓がある。

その墓石の上部にきざまれた不思議な文字がある。
八の下に臼、つくりは烏である。
何と読むのかどんな意味があるのか今は知る人がいない。
石仏の台座にあけられた椀状穿痕と同じようにその意味は謎のままである。
今は文字をバラバラにして烏八臼(ウハッキュウ)と呼ばれているが元々は音があったものと思われる。
時代とともに失われるものって意外と多いものだ。
意味が不明だからみんな勝手な事をいう。
私も勝手なことをいう。

烏八臼はトリの名前で鳳凰の僕という。
墓に集まるカラスを追い払い夜な夜な出てくる鬼火を鎮める役割がある。
これでカラスも寄り付かないし火の玉も燃えない。
子供の頃から知っていればお墓など怖くなかっただろうに。

2014.07.08(07:54)|石仏賛歌コメント(0)TOP↑
P7010002.jpg
虎と噂は日に千里を走るという。
おどろくなかれウェブの情報はあっという間に地球をまわってしかも七十五日たったって消えることはない。
ましていまどき幽霊が出たなどという情報には怖いものがある。
新青梅街道の武蔵村山三ツ木の交差点は交通事故の多い場所である。
この交差点で深夜乗用車同士が出会いがしらに衝突し、若い女性が死亡するという事故があったそうな。
それいらい幽霊を見たとか車に幽霊を乗せたといったうわさが広まり、時には幽霊見たさに徹夜で見物するものまで現れてしまった。
そんなおり誰がこしらえたかわからないが交差点の角にお地蔵さんを建てたのである。
それから四十年以上も過ぎて角のガソリンスタンドはコンビニにかわっているというのに、くだんのお地蔵さんには何時も真新しい花が飾られている。
私はそんな噂を吹聴しようという魂胆は毛頭ない。
ただ、気になるのはそのお地蔵さんの前に小石を並べてお祈りする人がいるというのだ。
お地蔵さんに小石が供えられたり、椀状の凹みに小石が入っていたり、穴のあいた石を吊るされたりしているのをよくみかける。
そういう風習が既にその意味は忘れ去られて形だけが祈りの方法として伝わっているのだとおもうけれど青梅街道の馬次場だった武蔵村山のような古い街に脈々とつたわっているのを思うとなんだかキュンとするものがある。

2014.07.06(09:01)|道端の神 道祖神庚申コメント(0)TOP↑
P6300105.jpg
くだんの原山地蔵はアップするとこんな顔をしています。
石仏は凝視すると人間らしくなる。
2014.07.05(08:47)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
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ついでに原山の地蔵さんにも寄ってきた。
この地蔵の台座には幾つもの椀状穿痕が残っている。
そのくぼみに髪飾りや飴玉、お金が入れられていた。
木の切れ端、石ころなどが納められている。
あたかもその石ころで窪みを叩いたかのごとく無造作に叩くのに都合の好さそうな大きさの石ころである。
なにかの意味があるのだろうか。
いや、きっと意味があるにちがいない。
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2014.07.04(08:08)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
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青梅街道の武蔵村山、大曲から小路をすこし北に入った所を原山という。
原山地蔵がある。
その近くに六指地蔵があるというので訪ねた。
実は二三年前に近くまでいって探したけれどどうしてもわからなくて諦めた経緯がある。
そのことはずっと忘れていたのだが、せんだって岡工の先輩であり田舎では隣であったAさんにお会いして(なんとこちらでも隣というほど近い武蔵村山の大南に家があった)武蔵村山三小の先生をしていたという話をお聞き、三小といえば武蔵村山の原山にある小学校である。
その学校の下に原山地蔵も六つ指地蔵もあるのだ。
ということで再チャレンジしたのである。
こんどこそはトライしたのだがやはりわからない。
通りがかった年寄りに聞いてみたけれど知らないという。
山にすこし登ったところという情報を得ていたので、それとおぼしき竹藪の中を登ってみた。
なんのことはないそこは村の墓地であった。
やれやれ露でズボンが濡れてしまった。
丘の上に集会場のようなお堂があったので何かあるかもしれないと登ってみた。
お堂の隣の斜面に祠があって武蔵村山市の文化財案内の看板が出ていた。
やっと見つけた。
案内看板には
江戸時代初め、屋敷山に前島十左衛門という地頭の屋敷があり此の地を支配していた。
その娘はどうしたことか指が六本あった。年頃になって身の不幸を嘆き自殺してしまった。
それを憐れんで村人は地蔵を建て、今では子育ての地蔵として信仰されていると。
それにしてもそんないわくつきの地蔵を知っている人が少ないのには驚く。
祠の中には1メートルほどの立派なお地蔵さんがおられた。
回りには千羽鶴がいくつも飾ってある。
赤い帽子に涎かけが何枚も巻きつけられている。
花やお菓子が供わっている。
この場所を知らないというひとが多かったけれど実はこんなに面倒を見ている人がいるのだ。
ほっとする。
さて、指はとみると涎かけに隠れて見えない。
ん、指が六本なんてこととは離れて信仰されているのだねぇ
この際、涎かけは外させてもらって写真を撮ってきた。
左手は宝珠を持っている。
錫杖を握る右手の指がみえる。
親指が錫状の奥にあるから手前の指が五本、都合六本となる。
ちょっと見にはわからないがなるほど六つ指である。
江戸初期にしては痛んでいないようだ。
手厚くもてなされてきたのだろう。
地蔵建立の願主が親の地頭であれば話としてはすんなり通るけれど村人だとはてなと思う。
当時は男の子が死ねば地蔵を女の子が亡くなれば如意輪観音を墓とするのが普通だが、この言い伝えは味がなさすぎないか。
要らぬ話がまかり通るとこまるけれど尾鰭をつけてみたい衝動に駆られる。

此の村の地頭は人情味があって村人の面倒見もよくそのせいで村は豊かでであった。
一人娘の八重の成長を楽しみに妻に先立たれても後妻もとらずにいた。
八重が十三のとき天神様の祭りで由とであいお互いに魅かれてついに一緒になることを誓う。
何があっても一緒だと指切りをして結ばれる。
やがて腹が膨れてきて親に打ち分けたものの親が許すわけはない。
由は百姓の息子である。
そこに一人娘の八重を嫁に出すわけにはいかない。
かといって百姓の由を養子にすることも村人の手前できないことであった。
十左衛門は考えて隣の三ツ木村から地頭の息子を婿に迎えた。
八重には女の子が生まれたけれどその子の右手には指が一本多かった。
八重は指切りした由の指であると直感する。
婿から月数が合わないことから詰問されてとうとう八重は本当のことを話してしまう。
激怒した婿は生まれたばかりの女の子を殺してしまう。
そんなことがあってからやはり祟りであろう、地頭も婿も八重もまもなく死んだ。
村には疫病がはやり疱瘡で死ぬ子供が多くなった。
人はみな殺されたややこの祟りだと噂したが、このままでは村が疲弊してしまうと有志が集まってお金を出し合い、地蔵を建立することになった。
立派に出来あがった地蔵を見た村人は驚いた。
錫杖を持つ指が六本ある。
石工は何も知らぬ筈であったが自然と鑿が動き出来あがって初めてそのことに気がついたという。
村人は直させることをせずそのままお堂に納めて供養した。
それからは疫病もおさまり村は豊かになっていった。
村人はいつからかむつゆび地蔵と呼ぶようになった。

P6300097.jpg



2014.07.01(10:49)|石仏賛歌コメント(0)TOP↑
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牛鳴

Author:牛鳴

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