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青梅 成木五丁目新福寺本堂西脇

青梅市の資料によると
この寺は滝沢山大雄院と号す寺で新福寺という。
海禅寺住職栄芝順富により天正八年開山
江戸城改修にあたり成木の石灰の供出を命じられたのは川口弥太郎、木崎平次郎、佐藤助五郎、野村庄七郎の四人であった。
成木で焼かれた消石灰は江戸へ運ばれた。
今は成木街道と言っているがあくつけ街道といって青梅街道の出発点である。
江戸四谷まで十三里三十丁。

この寺は明治六年に焼失、明治二十二年再建という。
本堂脇の地蔵がはじめからここにあったかどうかは疑わしい。
その地蔵の足元にそなわった二個の丸石が最初からこんな状態であったかどうかは更に疑わしい。
しかし、まぎれもない丸石である。
八王子城が前田上杉の豊臣軍によって落城したとき落ちのびた北条氏の一部が成木に住みついたと言われている。
石灰焼きの元祖四人がどんな素性であったか知るところではないが、甲州とのかかわりがなかったとは言えまい。
こんなととろで丸石に会えるとは・・・
実はこの日、成木川で曼珠沙華の写真を撮って昼飯を食う場所にこの新福寺によったのである。
駐車場で飯を食いながら前にも一度訪ねているような気がしてならなかった。
花の写真が主だったので本堂のある坂の上まではあがらないで、寺の名前も確認せずに立ち去ったのである。
後日その寺の名前を地図で探したけれど見つからなかった。
前に訪ねていれば写真があるはずと古い写真を引っ張り出していたとき、この丸石の写っている写真を見つけた次第である。
呼んでくれたんだろう、丸石神が。
見落とさないでくれと叫んでいたのだろう。

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ちなみに成木の石灰生産は明治の初めころまで続いていたという。
江戸城改修が終わると贅沢な漆喰の使用は少なかったと思われるが時代がさがると金持ちは美しい白壁に贅をこらした。
需要は細くとも生産は続いたのだろう。
消石灰に水を加えると凄い熱が発生する。
馬で江戸まで運びつなぐのは雨とのにらみ合いだったかもしれない。
消石灰を田に撒くようになったのはずっとあとで、私が子供の頃は石灰を撒いた田に泥鰌が死んでいるのをよく見たものである。
消石灰が酸性化した土壌を中和する働きを知ったのは化学が知られてからである。
消石灰に海藻を混ぜて塗るのが漆喰である。
昔はグランドの白線を引くのに使ったから学校の倉庫にいくらでもあったものだが今はもうみない。

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2012.10.07(08:22)|道端の神 道祖神庚申コメント(0)TOP↑
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