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大晦日である。
七十路に足を踏み入れた身には朝の冷気が沁みる。
腰の痛みもふつふつと湧いてくる。
五年越しで撮り歩いた椀状穿痕を一冊にまとめる。

DSC02727.jpg

盃状穴やカップマークとは時代も意味合いも異なると考え、混同を避けるために椀状穿痕と言い始めたのだが、賛同してくれたのか同じ言葉を使っている方もちらほら見出す。
ま、いいことである。
まだ長野県、山梨県、埼玉県、東京西部の一部分しかみていない。
これを機に日本中の分布が集まりはじめればいいのだがと思っている。

DSC02724.jpg

来年は卯年。
さて、跳ねることができるか。



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2010.12.31(08:38)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
守屋に雲がかかれば雨が降る
諏訪地方ではそういわれている。
守屋山は私の故郷にとって切り離せない山である。
それなのに自分の家からは見えなかった。
前衛の山が立ちはだかっているからである。
家から北側に永明寺山、東に八ヶ岳連峰、西には北アルプスがみえる。
南側は守屋山から続く諏訪神社の山々で、四方八方山であった。
諏訪地方は盆地で寒いけれど穏やかな気候で大雨もないし照ることもない。
すでに灌漑用水やせぎが整っていたからで、もっと昔はどうだったか。
必要な時に雨が降らなければ、雨乞いも必要だったのではなかろうか。
地元ではこう伝えられている。
守屋の神様にションベンをひっかけるんだ。
そうすると神様が怒って雨を降らせる。
それでも聞かない時は神様を蹴飛ばして山から転がり落とす。
そうすりゃ、てえげえ雨がふる。
守屋の神様というのは守屋山の頂上にある祠のことである。
いくたび蹴落とされたものか、今では鎖で縛られ鉄柵で囲まれている。

雨乞いの方法は各地でいろんな方法が紹介されている。
一番霊験のある地蔵を荒縄でぐるぐる巻きにして湖や川の渕に沈めるというのはよく聞く話だし、蛇を竹かごに入れて滝壺に沈めるとか、中には牛馬の頭を滝に沈めるなどというのまである。
こんな荒っぽい方法は太古からあった方法ではなさそうだ。
立待という雨乞いは氏神様の前で氏子が交代で立ったままずっと待ち続けるというものだ。
そのあいだ鉦を打ち鳴らすのだという。
そうでもしなければ立ったままではいられない。
さて、そんなとき鉦ではなく石灯篭や石橋を叩いたなどということはないだろうか。

山の上で千駄の萱を燃やすのを千駄焚きというのだそうだ。
千駄ヶ谷や千駄木という名前の起こりだという。
あるいは雲燻とか雲焚きとも。
わが田舎にも火ともし山と呼ばれるや山がある。
その山に火がともったのは見たことがない。
雨を降らせるのに大量の煙を出すというのは科学的に合理のようだ。

八王子縛られ地蔵

(八王子 縛られ地蔵)

2010.12.23(09:19)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
子供の頃草履かくしで遊んだことがある。
戦後で殺伐としたころ役場の人が村の子供たちに昔の遊びを教えてくれたものだ。

ぞうり きんじょきんじょ おてんまてんま
橋の下の菖蒲は咲いたかさかぬか まだ咲きそろわぬ
妙々車を手にとってみたれば せんぞろく まんぞろく じゅうさんさぶろく まだよし

それぞれの片方の履物をならべ唄いながら勘定してゆき最後に当たったものを外してゆく。
何回もやると最後に一つ残った履物の主が鬼となって目隠ししている間にみんなどこかに履物を隠すのだ。
足が冷えるから早く探しておくれと囃したてるのが常であった。

この遊びの唄は全国に広まっていったらしく歌詞を変えながら伝わっているけれど「妙々車」という部分は変わっていない。
妙々車とはなんであろうか。
妙々とは字引きで引くと「優れたるさま」とある。
調べてみると江戸時代の本に「童謡 妙妙車」という種員作 国貞絵がある。
妙妙車という鉄の車にのった妙妙道人が空を飛ぶ絵があり鉄車仙とある。
童謡のことでなく幾つかの作られた話が載っているようだ。
その話の中には志度六と魔度六という名前の人物が登場するから、せんぞろく まんぞろく とは しどろく まどろくであった。
「きんじょ」も草履近所ではなく勘定だろう。
しかし、鉄の車では手にとれない。
そうだ、この本のことだ、本ならば手にとって見れるじゃないか。
小躍りしたのだがそうは問屋が卸さない、序に「しどろく まどろく じゅさんろく と九々にも合わない童謡の・・・」というくだりがあってどうやらそれよりずっと前からこの唄が存在していたことをうかがわせる。
ずっと謎だったから後から物語ができたわけだ。

かくれんぼぅにしろ草履かくしにしろ、遊びが始まってしまえばしゃべることは法度である。
鬼を決める段階で唄い拍子をとりみんなの気持ちの輪を維持することになる。
遊びが始まってしまえば口がとまり動くのは手だけだったかもしれない。
片足で石灯篭に寄りかかって「足が冷えるから早く探しておくれ」と灯篭を叩いた・・・・なんて想像するのはたやすいことだ。

信州小県の民謡集に鬼決め唄が載っている。

 鬼の来るまで 洗濯でもしやしょ
 鬼の来るまで 豆でも炒りやしょ
 がらがら がらがら がらがら がらがら
 石臼がらがら 
 豆はたき とんとん

鬼は洗濯を嫌い豆も嫌うものらしい。
唄は載っていてもどんなしぐさがあったのかはわからない。
わからないけれど「石臼がらがら」 とか「豆はたきとんとん」という文句は石灯篭などを叩きそうで気になるものである。

こどもは十五ぐらいまで子供組に入っている。
それを超えると青年団に加わることになる。
子供の教育が取りざたされているけれど昔は子供組の中で自然に世の中の仕組みを学んでいった。
じゃ、女の子はというと近所の同年代で縄跳びやままごとをして遊んでいたようである。
一緒に遊ぶとはなかった。
女の子の遊びはどれもままごとですませているようだけれど、本来はまんますなわち飯を炊くことである。
伊那では雛祭りの日に河原にあつまり子供たちだけで竈をこしらへて飯を炊く行事があって十二三の女の子が頭となってすすめる。
それが子供からの卒業儀式である。
竈を作って飯を炊くというのは大仰なことだからやがて土で幾つかの小さな竈を模してつくり小石一つを添えた。
その竈を男の子たちが撞き壊すという盆の行事があるという。
それにどんな意味があったのか理由は薄れているけれど、そこには普段は別々に遊んでいる男の子と女の子の接点があったのだとおもう。
ままごと遊びで石の灯篭の窪みに餅草を入れて石で撞くというような遊びもそんなところから脈々と続いているともいえないことはない。

正月七日には鳥追いがある。
七草なずな 唐土のとりが・・・・三つに割って味噌つけて四つに切って塩付けて・・・・
諏訪では鳥追いは子供の領分である。
七草を恵方に向いて叩いてかゆにするのは、初め石の上で叩いていた。
椀状穿痕に草を入れて餅を搗くのはこのあたりから始まっているような気がする。




2010.12.20(07:59)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
たいていは神社仏閣に石灯篭がある。
それも夥しい数の場合もあって驚かされる。
飯能の能仁寺の参道に沢山の石灯篭がならんでいる。
それらには葵の紋が彫られているから徳川ゆかりのものとわかる。
諸国の大名が奉納したものだろうか、立派な作りである。
上諏訪の温泉寺横に歴代の諏訪藩主の廟があって、そこには夥しい石の灯篭がたっている。
以前訪れた時それらの石灯篭の火袋に半紙が糊で貼ってあった。
盆だからか火を入れたのか知れないが、訪れた時灯は灯されていなかった。
あぁ、夜に訪ねれば異様な光景に遭遇していたかもしれない・・・

この近くでも青梅街道や甲州街道沿いの神社に石灯篭があって、その台石に椀状穿痕があるので写真を撮っている。
その石灯篭はいずれももともと神社にあったものではなく街道にあって常夜灯であったようだ。
街道の整備にあたり無難な神社や寺の境内に引っ越したものである。
形も御神灯の石灯篭よりはどっしりとしていていかにも常夜灯の観がある。
しかし、それらの石灯篭を見て何時も疑問に思っている。
実際に夜の街道を照らしたものだろうかと。
確かに電灯のなかったころの夜は月がなければ一寸先も見えないはず。
旅人は難儀をしただろうとおもうけれど、そんな夜には旅人も動かなかったのではなかろうか。
石灯篭の火袋をみると丸窓に三日月といった窓がある。
それにしてもこの火袋に火を入れたらたちまち風が消してしまうだろうし、この窓からの明かりでは街道は照らされない。
灯台元暗しで遠目の印にはなるだろうけれど。
それに火袋の天井が煤で黒くなっているものも見たことはない。
いくら時代が経たからといっても煤の痕跡は残るとおもう。

柳田国男集21に「秋葉の常夜燈」という小文がある。
秋葉講の組織のことで各戸が順番に毎日夕方になると、秋葉様の木の灯篭へ火を灯しにゆく。
丈夫な木の火打箱があって、毎日早天に隣から回わしてくる。
それが常番の印でありおおくは忘れぬよう上がり端に置いたままにしてあった。
箱の中には燧金と燧石、ほくちに附木・・・・この連絡は信仰以上に力強い警戒の共同ともなっていたようである。

ここで言ってるのは燈明としての木の常夜燈のことである。
いまでもそういった木の灯篭が神社にあるけれど火袋は障子のように和紙がはられていて風では消えないようになっている。

さて、燈明とは仏法であり法の教えそのもののことである。
献灯は昼間に法会をするとき灯す淨火である。
夜の照明ではない、照明の目的にはかがり火が焚かれた。
そうなると街道筋の常夜灯の目的はなんだったのだろうか。
秋葉山と書かれているものがおおい。
秋葉山は火防の神様である。
各家庭には火防のお札が貼られていた。
神使の狼が向かい合っている図柄でいまでも古い家では見かけることがある。
当時の災害の一番は火災であった。
地震雷火事親父では一番ではないけれど、たびたび繰り返される大火の被害は甚大だったはず。
みんなで金を出し合って常夜灯を作る意義は各自の防火の責任を認識するものでもあったのだろうとおもう。
そんな常夜灯が子供たちによって遊びの対象となり石で叩かれて穴があけられる。
そんな時代にはすでに隣近所の結びつきも希薄になっていったと考えるのである。

私の親父は私が子供のころに死んでしまったが、遺品の煙草入れの中には火打ち石と打ち金、ほくちが煙管やきざみの入れものとは別の皮袋の中に入っていた。
子供のころ野良で爺さんが煙管の火を左の手のひらに落とし、ころがしながら右手だけで器用に新しいきざみを詰め替えて手のひらの火を二服目の煙草につけて吸っていたのを覚えている。
家の火代にだって戦後の物がない時代だったから付木が残っていた。
巻いた経木の一方に硫黄をつけたもので細く裂いて炬燵のおきにつけるとつんとした匂いとともに火がつくのだ。
当時はまだ貰いものの入れ物を返すとき付け木を添えて返す習わしが残っていた。

マッチが無いころは火をつけるのは大変なものだったと想像する。
やむを得ず夜間にかけて外に出かけなければならないときなんかはまだ明るいうちに提灯に火を灯して出かけたのかもしれない。
常夜灯の役目はそんな人の為の火種を確保する目的があったのかもしれない。
そういった役目も御免になった頃だろう、子供の遊び場となったのは。

2010.12.19(08:29)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
村山の阿豆佐味天神前にある常夜灯の椀状穿痕をみておもった。
少し前、石畑の地蔵堂をみたとき月番で集まっていた村の人に椀状穿痕の話を聞いたのだが、その時にはすぐ隣である殿ヶ谷の地蔵尊やそこにあった穴ぼこだらけの常夜灯のことは話に登らなかった。
いまでも隣村のことには関心がなく知らないかのように感じたのである。
先輩たちがこんなにおおくの穴をあけてきたというのに。
石畑の地蔵堂から殿ヶ谷は500mも離れていないけれど隣の村なのである。

こうした椀状穿痕を子供が遊びか何らかの行事でつくったもの想定した時、その時代を①時期を江戸末期から明治にかけて、②明治から大正、③昭和のはじめとすれば、この時代多摩地方はいったいどんなことがあり、子供たちはどんな暮らしや遊びをして過ごしていたのだろうか。
そんな所から何らかの手掛かりがあればとおもうのであるが、多くの歴史書は政治や文化ばかりで子供の遊びやおこないの記事は多くない。

① 江戸末期から明治初め
既に内藤新宿が栄え、多摩のかく村からは江戸へ向けて荷駄の馬が盛んに行き来していた。
とはいえ、土地は痩せていて百姓の暮らしは楽ではなかった。
天明天保の打ちこわし、武州一揆、ご門訴事件などが起きている。
学校は寺子屋や郷学校だが百姓町民の子供たちも良く学んでいた。
廃仏毀釈があり野蛮なものが排斥されるけれど民衆の地蔵、庚申などの信仰は根強く残っている。
② 明治後期から大正
痩せた畑は都心から運んだ人糞を買い肥料にした。
青梅街道は下肥やとれた大根などを積んだ馬車の往来が激しかった。
明治初め学校ができこの頃になると誰もが通うようになる。
電灯がついたものの広まるのは大正から昭和にかけてだからまだランプが多い。
コレラ、天然痘、赤痢、腸チフスが流行る。
戦争がはじまり子供たちも戦ごっこが広まっただろう。
③ 昭和初期
村山貯水池ができ鉄道パス自動車がとおる。
立川に飛行場ができる。
軍国化してほとんどの家で出征があった。
学校は国民学校となって皇国民の練成が主力になる。

子供は遊ぶ天才である。
木切れ一本、小石ひとつあれば何時だってあそんでいる。
同時に子供はものまねの天才でもある。
隣の村の遊びもおこないもたちまち自分たちのものにしてしまうものだ。
小川寺のばあさんは馬頭観音の穴について昭和のはじめごろ子供は学校の行き帰りに叩いていたと話してくれた。
久米川の年寄りは子供のころヨモギをいれて石で叩いたと話す。
こうした証言はけっこうあるのだが、いずれも最初からそこに穴があって石で叩いたようにみえるから、叩いてみたといった感じで、理由や唄、掛け声などについて訪ねるとあやふやになる。
年齢からすれば戦争直前ぐらいだから、もっと前にさかのぼらなければならず、もはや生き証人はいない。


こどもの歌や遊びをみてもたちまち大流行してあっというまに忘れ去られてしまうものだ。
ときどき二番煎じがおこるけれど長続きはしない。
椀状穿痕もそんなものかもしれない。

私の郷里はどの村の境にも道祖神があった。
二十三夜待ちとか何とか地蔵だの幾つかの石塔があって、どれが道祖神なのか子供にはわからなかった。
そんなことはがきどもにとってどうでもよく、そこは遊びの集合場所でありみんながくるまでの遊び場であるのだ。
当時子供の間にはまだ幾つかの講が残っていた。
稲虫というのがあって子供たちだけが公民館に集り、小旗をこしらえ宝蔵からずっと伝わっている稲虫の大旗を持ちだして、鐘太鼓を用意し日を決めて村中の田畑を回って歩くのだ。
「稲虫送りな 隣の村へ送りな」と唄いながら田畑を練り歩くのだから、どうかすると隣の村といさかいになる。
まだ、村境から遠いうちは言葉の投げ合いでたあいないけれど、道祖神近くでは隣の村が近いから石の投げ合いになって怪我をする子もでてくる。
私の子供だったころは稲の虫がそんな歌で隣村に逃げるとは思っていなかったし、たいしたいさかいも起きなかったけれど、村には稲虫の武勇伝が伝わっていて講の語り草になっていた。
もうそんなことはやっていないだろうと思っていたが、最近刊行された郷史をみていたらまだ続いていてほっとした。
とはいうものの、その写真を見ると親が一緒なのである。
これでは子供講の意味がない。
さて、その郷史の中に、コレラの侵入を防ぐ話が載っていた。
村にコレラを入れまいと村境にはしめ縄を張り巡らし、鐘太鼓をたたき、幟を立て大騒ぎしてコレラの侵入を食い止めようとした。
安政から明治初期、コレラはあっという間に全国に伝搬したのである。
田舎の稲虫に伝わる鐘太鼓は其頃からあったものであろう。

添田啞禅坊の流生記にコレラの流行したころの記述がある。
明治十九年夏のこと、コレラが流行して近所でも早桶が幾つも表を通った。
焼き場へ運ばれてゆくのだ。
三つ通った、五つとおったなどと勘定しながら見ていて「そんなもの見てないで、家に入ってな」と怒られた。
それでもみんなが騒ぐのでやっぱり見たかった。
子供たちはみんな「さいこどん」の歌を歌った。
月夜鴉とナァ 口ではいえど 嘘のつかれぬ此の時計
ズイトコキャ行かいでもかまうこたない サーイコドンドン サーイコドンドン
サーイコドンドン  ドン 
ササ サーイコドンドン ドン
大人はみんな「さー行こう」なんていやだいやだといっていた。
明治十五年の大コレラも覚えている。
村の境には石炭酸が四斗樽に入れてあって両方の村で汲めるように竹の柄杓が添えてある。
それを竹の筒に汲んで後も見ずに逃げるように帰った。
更にこんな歌(チョイト節)がはやったという。
いやだ いやだよ
じゅんさは いやだ
じゅんさコレラの先走り チョイトチョイト
つとめすりゃこそ おかいこぐるみ
親は こもにまかれて門にたつ チョイトチョイト
 家のおやじはえらいもんじゃないか
 (ナゼニ)おまわりさんだからって誰かってそばへはよれない
 (ナゼニ)大道の水まきだ
チョイトチョイトというところは招く手招きをしながら子供らが大勢列をなして唄って歩いた。
ちょいと不気味なものであった。
子供らが大勢列をなしてうねりあるいて異様だったと。
(以上要約)

コレラの流行に対して政府は打つ手がなかった。
急普請で避病院をつくり強制的に隔離するしかなく、巡査が黄色い旗を立て先導し隔離したがほんとん生きて変えることはなかったという。
米価は高騰し魚類の販売は禁止となって、そういったことよりも巡査のところ構わぬ振る舞いに庶民は怒りコレラ一揆に発展したという。
コレラが伝染病という観念には乏しく、アメリカ狐の仕業と狐の天敵である狼や山犬の信仰が盛んとなっていた。
八つ手の葉、黒焼きニンニクにみもすそ川の魔よけぐらいが手立てだった。

椀状穿痕は時期こそ不明だが全国に伝搬している。
街道筋がもっともおおい。

街道は文化や遊びの伝わる道でもある。
同時に伝染病の伝わる道でもあった。
八王子の絹の道は天然痘の道であったといわれている。
さて、椀状穿痕は誰が作ったのだろうか。
明治には廃仏毀釈があったけれど石仏だけでなく神社の灯篭や石段こもあることからまずは関係が薄い。
中にはほとんど破壊するほどのものもあることから大人がやったとはまず考えにくい。
多くの穿痕を見ると一人二人の叩き方ではなさそうだ。
大勢が拍子を取りながら叩いたはずだ。
それも穴をあけることが目的ではなく破壊することが目的でもない。
叩くという行為そのものが無心の目的になっているように思えるのだ。
村の子供たちみんなで叩いたはずだ。
もし子供のしわざと考えると、これほどのいたずらを大人が制止しなかったとすれば、それなりの大きな理由があったに違いない。

こう考えてくると候補に挙げられるのがコレラの流行した時代、それを阻止するための子供の行事という考えが起こる。
もう少し時代を下げると日清日露戦争に出征した兵士の武勇を祈るという選択肢もあるけれど、これはどうも肯定しにくいところだ。
石膓道人いみじくも 「天に口なし 人を以って言はしめるとかや」 と
いずれにせよこれらの椀状穿痕は子供の行った行為という他にも賭事のゲン担ぎや盲目的な信仰による穴あけや叩きが一部混在しているはずで、それが何故と想像することすらいっそう困難にしている。

2010.12.18(08:51)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
椀状穿痕のあった小平の神明宮も熊野宮も元は武蔵村山の阿豆佐味天神から分祠したものというので、もし椀状穿痕が神社に由来するものであれば阿豆佐味天神にも椀状穿痕があるかもしれないと考え見に行ってきた。
この神社は古くからある延喜式内社で天神といっているが菅原道真を祀っているわけではなく少彦名命だという。
入り口の石柱に郷社阿豆佐味天神と彫られている溝に郷社と天の上の部分がセメントで埋められていた。
阿豆佐味大神と読ませようということらしいけれど誰もそうは言わない。
神社庁も大変だ。

村山阿豆佐味天神


間口五間もある拝殿でそれはこの辺では大きな神社なのだが、今はすっかり寂れている。
都合十一基に及ぶ石灯篭があるけれど椀状穿痕は認められない。
石灯篭だけでなく何処を探しても叩いた痕はない。
やはり椀状穿痕は神社と直接関係ないのだと、期待をそがれたような安堵したような複雑な気持ちで帰ろうとしていた。
長い参道の中ほどに大きな石灯篭が一基建っていた。
あ、「これは常夜灯だ、穴があるぞ」と直感する。
鉄の鎖で囲まれている。
壊れかけていて危ないからだろうか。
火袋は破損したのか新しい石材と変えてあるようだ。
三段目の台石はえぐられたように削られている。
二段目の四隅には顕著な椀状穿痕がある。
これは今まで見てきたものから比べるともっとも激しく、もはや椀状などといっていられないほどの傷である。
いったいどうしたことだろう。
穴に草をいれて餅撞きのまねをしたとか、何かの遊びで子供らが叩いたといった感じではない。
もはや、叩いて傷をつけることが目的で石を打ちつけたとしか言いようがない。


村山阿豆佐味天神 (2)

水を掛けていたら爺さんが通りかかった。
早速聞いてみると青梅街道を少し西に行ったところ殿ヶ谷の火の見がある角にあったものと教えてくれた。
移したのは昭和五十九年十二月であった。
爺さんの家は参道の隣だったが子供だったころは此の地ではなかったので灯篭を叩いた経緯はしらなかったものの、話はとどまることなくあふれ出して小一時間たっても終わらない。
宮崎宮司の先代はよく話す人だったが息子はしゃべらないとか、一人娘を三島に嫁に出したとかそんな話ばかりだったけれど。
昔は正月、縁日には出店が青梅街道まで並んだもんだとも。

このこすったように長い穿痕はどうやってつけたものだろうか。
長めの石で上からそぐように打ちおろせば勢いあまって下の台石がえぐれるような気がする。
それがないということは打ち方としてはかなり微妙な力加減になるのではなかろうか。
歌か掛け声かに合わせて拍子を取りながら叩かなければこんな風にはならないだろう。
どんな遊びだったのか、どんな意味だったのか、今の時代誰も知る人がいないということは不思議というほかあるまい。

2010.12.17(09:31)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
富士見横吹

富士見町の横吹地区に奇妙な石がある。
墓地のような場所だから何処からか移したものかもしれないが、あたりには誰もいないから聞くこともできなかった。
窪みのある石で窪みの上に石が載せてある。
横には石棒のような石が三個ばかり置いてある。
どう見ても自然石ではなさそうだ。

柳田国男集八巻の中に「石の枕」がある。
「話はわずかな歳月で変化する」という出だしのエッセイである。
姥石ともいわれるもので形状は石の枕のように真ん中が窪んでいる石が浅草の寺に伝わっているしいう。

そんな石が全国にみられるというのだ。
氏は、最初は霊媒がこんな石に据わって神のお告げを聞いたものだがやがて頭をのせて耳をつけて聞くようになったのが石の枕と考察している。
いまの姥石の言い伝え、すなわち旅人を石の枕に寝かせ娘に夜の伽をさせ、寝入ったころ上から石を落して殺し金品を奪うという恐ろしい鬼婆娘の話になっているのは、伝承というものは実際にその行為が行われなくなってしまうと、たちまち姿形を変えて新たな話と化してしまうものの例えにもなって興味深い説である。
私の田舎でも埋葬するとき棺をこのような石に載せ三遷するならわしがあった。
これらも死者に神あるいは黄泉の国の声を聞かすといった意味があったのかもしれない。
私はこれまで枕になりそうな窪んだ石を何例かみているが、この例は枕にしては大きすぎるようだが
伝承の中には「姥化して石になる」といった話もあるから、話はいいようかもしれない。
ま、そんなたぐいの石だとおもっている。

とはいうものの、私にはどうしても陰陽石に見えてしまう。
2010.12.16(08:11)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
金生遺跡

山梨県の長坂に縄文の金生遺跡がある。
石棒を中心にストーンサークルのように石を囲った異様な風景に驚かされる。
その一角に住居を復元した萱ぶきの建物がある。
中は掘りだしたときのまま保存されていて、壺や石棒が転がっている。
あまりにも無造作に物が転がっていて、はたしてここで生活をしたいてものか疑いたくなる。
生活の場ではなく石を加工する工房か集会場であったような気がする。
石棒はすぐにそれとわかるのだが、注意して見ると盃状に穴があけられた石が幾つかあることに気づく。
今ではそれを国分直一博士のいう盃状穴であると直感するものだが、後世の灯篭や馬頭観音に残るおびただしい椀状の傷とは次元の異なるものと私はおもう。
だからあえて言葉を変えて椀状穿痕と呼ぶのだ。
ただ、いずれも理由のわからぬ叩き傷であることから、ひょっとすると椀状穿痕も縄文時代から刷り込まれた習性ではないかと、酔ってくだまいて箸で茶碗を叩くのも縄文から延々と続く遺伝子のなす業ではないかとさえね・・・・

2010.12.15(08:12)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
武蔵野八幡宮


おやおや、この庚申塔の青面金剛はすっかり姿が消えてしまっている。
かろうじて足が残った。
下にいる三猿で庚申塔と分かるけれど、随分痛い目にあったものだ。
武蔵野八幡宮の鳥居のたもとにいるけれど、もとは吉祥寺駅の西側にあったという。
もう庚申の霊力もないのか邪魔にされたようだねぇ。
姿が消えてしまっただけではなく、穴が幾つもあいている。
大きいのも小さいのも、叩きにくいであろう傘の下までへこんでいる。
これはいったい庚申像を壊すために叩いたのか、穴を穿つために像がなくなってしまったものか。

2010.12.14(19:02)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
こちらで興味深いのは柱の部分にこすったように長手の傷があることだ。
石棒のようなもので叩いたりこすったりしたにちがいない。
三基とも形が違うのでつくられた時期も違うのだろうか。
どこから移したものか宮司に尋ねると、このへんに上組下組はあっても中組というところはないらしい。
それにしては今の仲町という地名も微妙であるが。

DSC_6234.jpg

小平熊野宮左 (2)

この神社の入り口には灯篭と石の鳥居がある。
石の鳥居は天保十二年八月の銘がしるされている。
この左側の基礎石に小さいが椀状穿痕が認められる。
左側にわずかに二つだけある。
また、入り口の石灯篭には叩かれた形跡はない。

両側の石灯篭は神社の献灯であり、奥にあったものは街道の常夜灯なのだ。
もとは青梅街道か鎌倉街道(今の府中街道)沿いにあったものにちがいない。
街道筋の常夜灯や馬頭観音には椀状穿痕が残っている場合が多いものだ。
甲州街道の府中近辺にもおなじようなものがある。
ただ、この近く、五日市街道ではあまり見かけない。
集落が街道にそっていたかどうかの違いだろうか。
これらの街道から何時移されたものか、これらの椀状穿痕は移される前からあったものか、気になるところである。
おもうに、街道沿いに住む民家の子供たちは辻などにある石灯篭や馬頭観音が格好の遊び場所になっていたのだとおもう。
それは石で叩きながら遊びまくった子供たちの印だとおもうのである。
移されてから叩いたと考えると叩きにくい場所にも凹みがあるからである。

DSC_6235.jpg

このお宮の奥に不思議なものがあった。
熊野宮と読める。
その形からは灯篭の一部であるような感じもする。
その足の部分に穿痕が認められる。
このあたり幾つかの村に分かれていて、その境には石灯篭や馬頭観音が建てられ、夜には常夜灯がともされたのだろう。
組は共同責任の集団である。



2010.12.13(08:43)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
小平市仲町に熊野宮がある。
青梅街道からは少し南に入っている。
昔、小川村を開拓したあと更に東に開拓をすすめたこのあたりは小川新田と云った。
当時このあたりの草原の中で目印となっていた一本榎の麓に阿豆佐味天神から分社して宝永元年(1701)一本榎神社を祀ったのがはじまりだという。
寛文元年 (1661)の小川村神明宮とは兄弟神社ということになる。
その一本榎は三代目になって、いまも大きくそびえている。
その榎の西側に二つの石灯篭がある。

DSC_6237.jpg

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いずれも中組とあるが年号はわからない。
この石灯篭に顕著な椀状穿痕がある。

小平熊野宮奥左

小平熊野宮奥右 (2)

一つは猫足のような台座をぐるっと取り囲んでへこんでいる。
かたや四角の台座である。
この違いは叩こうとする高さのちがいによるものらしく、もし子供が基台に寄り添って叩くとすれば丁度いい高さになる。
実はこの石灯篭のある位置から東側、摂社の東にも一基の石灯篭があって、それにも椀状穿痕がある。

(つづく)
2010.12.12(07:38)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
このお宮の奥にはおびただしい小宮や石祠が並んでいる。
それらは捨てられたかの感さえある。
宮司によるとこの宮のものではなく近隣の家にあったものを守れなくなったと持ちこんだものという。
西側の神輿や大太鼓を収めた倉の裏に気になるものがあった。
高さ40cmほどの石である。
柱は六角柱で落ち葉に埋まっていたがかき分けてみると、根勢大権現とある。
年代はわからないが、花小金井の円成院に安政五年銘のおなじようなものがあるから、関連があるのかもしれない。

DSC_6181.jpg

また、この神社の入り口右手にほとんどすり減ってしまった石の塔がある。
かろうじて読める部分でこれは道しるべであることがわかる。

DSC_6169.jpg

DSC02602.jpg

是より 北 山口 道
     東 江戸

是より・・の上部と左側側面にはほとんどすり減っているが椀状穿痕が見て取れる。
高さ75センチほど、石質は砂岩の伊豆石にようだがどうしてこんなにすり減ってしまったのだろうか。
子供たちの遊びにはかくれんほにしても草履かくしにしても鬼がつきもの、鬼の場所はいつもこんな石の柱である。
まさか、子供が撫でただけで石がへることはあるまいが。

この神明宮、不思議な穴ぼこでいっぱいである。

(小平神明宮 完)
2010.12.11(08:29)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
さて、この明神宮には狛犬が五組ある。
本殿のほかに幾つかの摂社があるから当然かもしれないが。
普段は入れない奥の本殿に小川弥市奉納の文政五年(1822)の一対がある。
いちばんおおきい狛犬は本殿参道の両側にあるもので西殿の前には小ぶりの狛犬一対がある。
更に東殿にも小さな狛犬一対がある。
参道にある一番大きいのは嘉永七年(安政元)の作、西殿のものは安政二年、東殿のものも安政二年の銘がある。
(参道左には昭和のものが一対ある)

DSC_6174.jpg

大きさは異なるけれど、どれも顔かたちが似ているからひょっとしたら同じ石工が造ったものかもしれない。
その狛犬たちの中で東殿のものだけ奇妙なことに頭に凹んだ穴があいている。
狛犬の頭の穴は他の神社でもたまに見かけることがあって「さてなんだろう」と何時も首をかしげることになるのだが、ここでも同じ場所おなじ年代に作られたものなのに一組だけ頭に穴があるのは不思議と言わざるを得ない。
この穴はさきの石灯篭のように子供たちが石で叩いて穴になったと云う風にはちょっとみえない。
たしかに高さから言えば子供の手の届きそうな位置であることに違いないが、片側のものは深さが二三センチだけれどほぼ垂直に下がっているから。
石工が鑿で何かのほぞ穴として故意にあけたように見える。
もう片方はお椀状にへこんでいて左右の大きさ形はそろっていない。

(つづく)

2010.12.10(08:38)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
一番奥の石灯篭には上二組と記されているが年号は文政のあとが傷でよみとれない。
文政は十二年間だが他の灯篭の嘉永に比べると二、三十年古いことになる。
この石灯篭には一番椀状穿痕が多い。
それは形によるものであるようだ。
すなわち基台には広さが伴っている。
一番安定した据わりの良さである。
子供たちが大勢で取り囲むには格好の形といえるだろう。

小平神明宮上二組

小平神明宮上二組 (2)

この灯篭には途中の三段の台座石にも椀時用穿痕は認められるのだが面白いのは柱石の側面に沢山の叩き跡があることだ。
その為に年号がつぶされて読み取れない。
子供ならば二段目に登り三段目に腰かけて丁度柱の側面に手が届く。
台座をたたくよりははるかに叩きやすいはずだ。

この三基の灯篭の椀状穿痕を見ているとおもうことがある。
子供のころ草履かくしという遊びをしたことがある。
戦争後で何もなく殺伐としていた時期、役場の職員が子供たちに昔の遊びを教えてくれたものだ。
数人が集まり草履の片方をぬいで並べ、まず鬼を決める。
「草履きんじょ きんじょ おてんまてんま 橋の下の菖蒲は咲いたか咲かぬか みょうみょうぐるまを 手にとってみたらば せんぞろく まんぞろく じゅうさんさぶろく まだよし」と唄いながら草履を足で勘定し最後に残ったものを外してゆく。
何回も繰り返すと最後に残った草履の者が鬼となって、目をつぶっている間にみんなは片方の草履を隠すのだ」
なかなか探せないと「足が冷えるから早くさがしておくれ」とけしかけるのである。
この遊びは江戸で始まり全国に広まっていったものらしく、歌詞が微妙に変化しながら各地に伝えられている。
歌詞の意味はわからない。
私はおもう、もちろん想像の産物であることはいうまでもないが、こんな遊びをしながら石灯籠などによじ登り石で叩きながら「足が冷えるから早くさがしておくれ」などと囃していたのではないかと。

こういった石造物は今のままで思いを巡らせるのは無謀である。
ほとんど現在の場所にあったものではないからだ。
この石灯篭も元は窪、坂組の青梅街道沿いなどにあったものだ。
何時ここに移動したのか、おそらく昭和の初め神明宮を建て替えた頃ではないだろうか。
椀状穿痕がその後のものか前の場所からのものなのか、調べる方法はない。

(つづく)
2010.12.09(08:18)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
次の石灯篭は坂組中で同じく嘉永二年製である。
高さもひときわ高い。

小平神明宮坂組

小平神明宮坂組 (2)

この灯篭の中台座にも椀状穿痕がある。
一番下の台座にも認められるけれど、高さは地面に居て叩くとしたら子供の手の届く高さとして手ごろな位置に当たる。
この上の台座を叩こうとするのであれば下の台に登り立ち上がらなければ手が届かないだろう。
必然的にあけられた位置関係といえる。

(つづく)
2010.12.08(08:03)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
橋をわたって鳥居をくぐると参道の左側に三基の石灯篭がある。
石畳の参道はずっと奥まで百メートル以上も続いていて本殿は奥まったところにある。
本殿は延喜式内社である阿豆佐味天神摂社で神明ヶ谷から勧請したお宮、更に隣の東殿には春日、八雲、八幡社、西殿には稲荷、白山、愛宕、熊野各社が祀られている。
三基の石灯篭には秋葉山、愛宕山とか富士山、榛名山、成田山の名前が彫られているから奥の神社の灯篭であることがわかる。
何故左側だけにあるのだろうか。
ふつう参道の両脇にあるのが自然と思えるのだが。
左側には日露戦争の戦捷記念碑や従軍記念碑、小川村開拓250年の記念碑などが建っていて、その為の灯篭のように見えるけれど灯篭の造られた時代はそれらよりずっと古い。
そんな詮索よりも興味深いのは石灯篭の椀状穿痕である。
最初の石灯篭は窪組中とあり嘉永二年の銘がある。

DSC_6057.jpg

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窪組中と彫られている台座の下の一段目に椀状穿痕がみえる。
しかしそれよりも興味深いのは二段目の上にある三宝型の台石である。
斜め上から石で叩いていたものか横穴のように窪んでいる。
このお椀に汁をいれたらこぼれてしまうだろう。
こうなるともはやお椀ではく音を出すためか、鐘のように叩かれたというほかあるまい。
もし二段目の台に乗って叩くとしたらこう叩くしか方法はなさそうだ。
その高さからやはり子供の仕業のようにおもえるのだ。

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(つづく)
2010.12.07(08:06)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
小平市上宿に神明宮という神社がある。
その神社の入り口に石の橋がある。
DSC_6105.jpg
石橋の製作にかかわった人たちの名前とともに嘉永二年(1849)の銘もある。
この橋は玉川上水から引いた小川分水にかけたもので頑丈な作りだから、玉川上水の分水によって潤った小川村は嘉永のころまでには豊かな村になっていたのだろう。
掘割のせぎはいまでも当時のままであるようなたたずまいを見せている。
多分変わってはいまい。
小川九郎兵衛がこの地を開拓したのは玉川上水が江戸に通じ野火止用水も分削されてしばらくしてからである。
江戸の水と川越藩の貴重な水の分水が許されたのはわずか一尺の分水口であった。
今流れている水もそのままずっと続いている。
この石橋の造られた嘉永二年は小川村開拓から193年も後のことである。
この石橋の縁石には大きなお椀状の穴があいている。
反対側にもあるから計四つの穴ということになるが、よく見ると叩いた穴の外にもわずかにへこんだ叩跡もある。
反対側の縁石の穴の一つは穴が大きすぎるのか今ではコンクリートでうめられてしまった。
椀状穿痕はその穴であたかも燈明でも灯したかのように見えるが、子供のいたずらだろうか、そうだとしたら大人は叱らなかったのだろうか。
DSC_6110.jpg
それともこの時代、幕末で大人はそれどころではなかったのかもしれない。
ま、穴があけられた時期は橋が造られてすぐとは考えにくいから、ずっと後の仕業とおもうけれど。

この神明宮にはさらに椀状穿痕のある石造物がある。
(つづく)
2010.12.06(08:18)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
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