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写真や絵手紙など牛鳴HPの玄関先です「牛鳴さんちのたからもん」

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DSC02146.jpg
旧青梅街道を更に東にゆくと大橋というバス停がある。
新青梅街道では三ツ木に相当する。
そこに大橋の地蔵尊というのがある。
ここも小さなお堂に納まっている。
みると台座にも蓮華座にもおおきな穴があいている。
これで瑞穂町から武蔵村山市、粂川に至るまで約20kmにわたりおなじような椀状穿痕が確認できた。
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2010.09.29(12:10)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
地蔵尊の台座の近くに穴を叩いたかのごとく手ごろな細長い丸い石がおいてある。
いまでもその石で何らかの信仰をしている人がいるにちがいない。
地蔵尊に着物を着せ、タスキをかけてやり花手向け、念仏をとなえる方が近くにいるに違いない。
手掛かりらしきものがそこにあるというのに、何とも気になってしょうがない。
それに地蔵堂の全景写真も撮り忘れていたので、それを撮りがてら郷土資料館にいって信仰している方をご存じか訪ねてみようと出かけた。
郷土資料館の学芸員の方は椀状穿痕について知らないようだった。
また、堂の外の馬頭・庚申は元々別の場所にあったらしいけれど移動の記録はなかった。
そこで吉野岳地蔵堂には奉賛会があって毎月二十四日には集まりお堂を開いているということが判明した。
何のことはない、今日はその二十四日である。
すぐに踵を返した。
DSC_1542.jpg
すでにお堂の扉は開かれ何人か集まっている。
何と運がいいことか。
奉賛会の会長さんに話すと、近くに98歳の方がいるからと呼んでくれた。
何と間のいいことか。
地蔵尊には触ってみることもできた。
何と素晴らしいことか。
このお堂は何回も道路整備に伴い移動していること、そのたびに土台などの改装をしていること、最近は平成十二年に今の場所に移動しその業者まで教えてくれた。
まして、お堂の外にある馬頭観音や庚申塔も別の場所にあった移し神様だということも分かった。
近くの方が会員にはお茶やお菓子の差し入れもしてくれる。
やはり隣近所の絆がつながる古い街なんだとおもう。
DSC_1547.jpg
奉賛会は念仏などの信仰ではなく、お堂保存のための団体のようだった。
椀状の穴を穿ったと思えた細長い丸い石は一つではなく幾つもあった。
其中には真円に近い丸石も含まれている。
椀状穿痕とは何の関係もなく、地域の方が珍しいものだと奉納するのだという。
このあたりの旧家では屋敷に神様をまつりそんな丸石をあげている家が多いといっていた。
そうだったか、この石で叩いたとは私の勘繰りすぎであったらしい。
九十八歳の老人は耳が遠いけれど元気で教えてくれた。
子供のころ歌を歌いながら近くの塚にあった馬頭観音の石塔を叩いて遊んだと。
それは男の子が主だったとも。
それぞれ気に行った叩く石を持っていて中には鉄の道具の子もいたと。
もうその歌は覚えていないという。
この地蔵尊の台座の窪みはお堂に入れる前、すなわち外にあった時代のものらしい。
すると明治以前ということになる。
今日改めて外の庚申塔と馬頭観音をみなおしたところ、台座だけでなく石塔背面の垂直な面に叩いて凹んだ痕が多数認められた。
垂直な面の穴は草もちや艾を叩いたものではなさそうだ。
やはり古老のいうとおり、子等が大勢で叩く遊びが古くからあったもののようだ。
古老は馬頭観音を指して「これはあそこの(日光街道)の道にあった」庚申は「塚(場所はわからないが○○塚という字が幾つかある)のたもとにあった」と昨日のごとく話してくれる。
この地区、江戸街道と日光街道が交差している。
街道筋ごとにそんな遊びが全国に広まっていったのかもしれない。

2010.09.25(07:58)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
旧青梅街道の瑞穂町石畑に小さなお堂が保存されている。
そのお堂の外に馬頭観音の石塔があって台座に椀状穿痕が残っている。
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其の隣の庚申像の台座にも椀状穿痕がある。
お堂は格子が嵌められて中に着物を着せられたお地蔵さんがいた。
よくあることである。
着物を着せられると顔以外は良く見えなくなってしまう。
困ったもんだと思いながら足元を見ると、お地蔵さんの台座に大きな叩かれた凹みがある。
お椀状というよりもはやどんぶり状じゃないか。
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しかも幾つかあったらしくコンクリートで埋められた形跡もある。
写真を撮ろうにも格子があってうまく撮れない。
なんとか格子にレンズを当てて撮ってみた。
なかなかいい顔立ちのお地蔵さんである。
足元の写真はうまく撮れないがなんとか撮ったものが次の写真である。
DSC_1527.jpg
瑞穂町の案内看板がある。
それを見ておどろいた。
このお堂が造られたのは文久三年(1863)とある。
中の地蔵尊は享保四年(1719)となっている。
文久三年とはもうじき明治となるころであり、再建とあることからその前にも何らかのお堂があったらしい。
中の地蔵の享保四年は将軍吉宗の時代である。
お堂に収められてから台座が石で叩かれるようなことはあるまい。
してみると台座が何らかの理由によって叩かれていたのは144年の間ということになる。
外の馬頭観音石塔には文政十二年(1829)の銘がある。
同じ場所にあったものかどうかは定かではないが、144年は34年間ぐらいに絞られるかもしれない。
地蔵尊の台座の穴の近くになぜか丸い石が置いてある。
これはいったい何だろうか。
昔からおいてあったとは考えにくいが、近年でも何らかの理由で叩かれていたとも考えられなくもない。
ご利益分譲の石の粉でも作り出したものか、誰か知る年寄りはいないものか。
もしも、お堂に収められてからとなると叩かれていた時代はずっと下がることになる。
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2010.09.23(06:21)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
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武蔵村山市は旧青梅街道がとおっている。
街道筋にはお地蔵さんや庚申塔が目につくのは古い街道ゆえで風情があっていい。
圓福寺は青梅市に近い街道筋にある立派な寺であるが近年立て替えたらしく庭も伽藍も新しく錺金具が光っている。
その境内の一角に新しい寺には不釣り合いのように古い庚申塔があった。
その塔の礎石にはぐるっと一周にわたって叩いた跡がある。
となりにある供養塔にもおなじように叩いたあとがある。
場違いがするようなところを考えると、道路整備に当たって街道端にあったものをここに移転したのかもしれない。
この椀状穿痕をみるとよく言われるように女の子が草を餅にたとえて叩いたとは考えにくい。
上段の穴は明らかに斜めになっていて草を潰すには適さない。
それにこんなに多くの深い穴を女の子がままごとであけたとはとうてい考えられないのだ。
穴をあける目的で男の子供が、それもわりと年上の子たちが大勢で叩いたように思われる。
それにしても全国いたるところにこんな椀状穿痕が残っているのにそれについて記載された文書などが残っていないのはいったいどうしたことだろう。
こうして見つけるたびに改めて不思議さを感じずにはいられない。

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2010.09.10(08:24)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
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