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椀状穿痕(わんじょうせんこん)の謎

諏訪の先史遺跡から小さな窪みが幾つもあいた石器がでる。
やれ穀物を入れてつぶしたものだとか石器を尖らせる道具だとかいろいろ言われるが使われた目的は謎である。
それを多孔石とか蜂の巣石とよんだりする。

ヨーロッパの旧石器時代の洞窟遺跡から盃状の穴が累々登場しSギーディオンなどが紹介している書籍を邦訳した江上・木村教授が盃状穴と訳したことから日本でも石棺の蓋などに穿ったものが発見されたものをそう呼ぶようになった。
しかし、道祖神や庚申塔などにみられるもう少し大きい穴のそれは、明らかに時代が違う。
それを盃状穴と呼んでしまうと混乱の元になりそうなので椀状穿痕といいたいのだ。

謎はその答えがでてしまえばおしまいである。
謎の穴ぼこ神様も答えがわかってしまうとただの石となってしまう。
答えはいましばらくわからないほうがいい。

「調布のこぼれ話Ⅱ」に仙川の昌翁寺の庚申の穴ぼこについての記載がある。
それは子供が草を入れて叩いたものという見解で縦の面にあるのは以前この石仏が倒れていたものだといっている。
土の中から掘り起こされたものとのことだが、ただねぇ、縦だけでなく天部にも穴はあいている。

「郷土」 下伊那郡の「石の話」岩崎清美にある。
石々こまんば
お寺の門前の石垣の角石や鐘撞堂の土台石といったところを子守っ子達が手ごろな石でコツコツと同じ所を叩きながら
石石こまんば あなほってとうれ
と唄う、コツコツコツコツ石屋のように叩いているうちに、だんだん窪くなって盃形の小穴ができる。
どこのお寺にいってもそんな穴がいくつも並ん出来ている。

「郷土」 小県郡石誌 小山眞夫
石粉たたき
児童が五輪塔や石灯籠の周囲で小砂利をこつこつ叩いて石粉をこしらへるものである。
それゆえこれらの物に大小深浅の凹穴があって恰も石器時代の多孔石だと思わせるものも多い。

これらの子供の遊びという見解には、もっとゲーム性というか勝負じみたところがないと全国至る所に残る多くの穿痕の説明としては弱いような気がする。
ただ、叩くだけなら全国的に流行ることはないとおもう。

「郷土」 御手形石其他 小澤萬里
下伊那郡神稲村御手形神社 
天龍川の畔の龍東線より東にはいること一里佐原という部落がある。
その佐原部落の西南端追いの窪と称する所に石を御神体とする杉樹茂る神域がある。
高天原の御使 武甕神に反抗した建御名方の神がここまで逃れきて力及ばずついに降伏して傍らの石に右手の跡を印して帰順の意を表した。
追いの窪という名もここから起こったという。
いつのまにか平坦な地は開墾されたが「おこり」という病が絶えず、これは神慮を汚すものだとして淨地をして神域としたのが御手形神社である。
日清戦争が起こった時は出征者が遠近を問わず参詣してこの石の破片をお守りとすれば明神の守護があるとして石を傷つけ持ってゆくものが多かった。
今では石棚を設けられている。

昭和七年の「郷土」に信州小県郡の古老の話として道祖神講が子供連のものであった旨の記載がある。
この古老が若かりし頃は明治時代ということになり、当時すでに道祖神の祭りは子供の範疇であったとおもわれる。
子供の道祖神講で隣村との喧嘩をして道祖神を隠したという話が載っている。

南房総和田町史に
海岸地区では江見のショウヤの観音様(安産の神様)からソコヌケの袋を一つ借りて、お産が済むと倍にして返す。
南三原の子安神社では境内に供えてある丸石(男の子が欲しい時は卵型、女の子が欲しい時は球形)を拝受し産後に倍にして返す。
という。
およそ神社には手ごろな丸石や石棒が供えられていたのかもしれない。
そんな石があれば叩くことで願うこともあるかもしれないし、時代が新しくなれば遊びの道具にもなるかもしれない。


猿の範疇から石をひろって道具として物を叩くようになった人は以来千年も二千年も石で物を叩いて来たに違いない。
時には食物をつぶし、時には木々を倒し、更に道具を作り出し、時には相手を倒すのに使ってきた。
蓄えることを知り、ゆとりが生じ、直接生活に使わないときでも人は石でものを叩いたに違いない。
豊作の感謝、祈り、呪詛、集中などでも石で叩いたにちがいない。
いま、酒に酔い感覚が麻痺したとき、箸をもち茶碗を叩いて鼻歌を口ずさむ、そんな行為はずっと昔の石器時代から刷り込まれているのではなかろうか。

考えられる項目
古い時代からのもの
1.  性穴  貯蔵庫などから対で発見される 繁栄などの呪詛か
2.  水窪石・水触石  灯篭例  竜蛇信仰に関連か
3.  火処  点灯
4. 塞石
5. 呪詛
6.



新しいもの
1. 子供の遊び (草もち遊戯  とりもち作り  ゲーム)
2. 遊びの順番を記憶する  物を数える
3. 病気平癒祈願 
4. あやかり 力石
5. 念仏の拍子
6. わらべ歌の拍子
7. 燈明 作業の交代などを知らせる
8. 方位による呪詛
9. 薬効(たまった水を使う  悪いところにつける  飲む)
10. 疣とりのまじない
11. 水の流れる方向による占い
12. ベーゴマを研ぐ
13. 日露日清戦争の威武安全祈願
14. 雨乞い・立待ち
15. 体力増強のために鉄アレー代わりに叩く石を使った

まだ椀状穿痕は長野県・山梨県・埼玉県・東京都しかみていない。
長崎県や広島県の話を聞いてはいるが、全国的に見てどう分布するのか知りたいところである。
これらの中には盲目的な信仰やゲン担ぎ、破壊行為などが混在しているとおもえるけれど、子供が何らかの理由で叩いたと考えるのがもっとも妥当のようだ。
多摩地区で青梅街道から甲州街道の比較的同じような子供の遊びとおもえる事例を見た時、明治三十二年の妙典供塔が最も新しいもので、村山貯水地による水没の移転後は叩かれていないようだ。
すると明治後期から大正時代、昭和初期までと考えたい。
この頃になると既に子供はみんな学校に通っている。
日露戦争の戦勝ムードのなか、子供たちは体力増強を旨に鉄アレーがわりに手ごろな石を振ったとも考えられる。
椀状穿痕を見ているとどこにでも転がっている小石で叩いたとは考えにくく棒状で握りやすくそれなりの大きさを伴う石を自分専用に探して持っていたようなきがするのだ。
穴ばかり見ていても答えはでそうもないので思い切って想像をひるがえしてみただけのことではあるが。






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2009.10.22(10:48)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
東京にもわずかだがまだ里山が残っている。
田の畔に綺麗な花が咲いていた。
綺麗な花に似合わずイボクサという名前をもらっている。
どうやらこの草を疣につけると疣がとれるということらしい。

DSC_0922.jpg


この草を叩きつぶすとぬるぬるした状態になる。
そうなるとただの草の汁からくらべると薬効ありそうな、そんな雰囲気になるんじゃないか。
実は石仏や神社の石段にある椀状穿痕が何のために穿かれたものかと想像をたくましくしているとき、イボクサを叩いて疣の薬にしたのではないかとひらめいたのである。
しかし草木名彙辞典によるとイボクサの由来はすりつぶしたのではなくこの草に疣を渡すという意味だという。
渡すとは「いぼいぼ渡れこの○○に渡れ」と指で疣と○○を交互に指しながらのおまじないである。
おぼろげながら子供のころやった記憶もある。
○○はいろんなものに変化する。
時には近くにいる友達のこともあった。

姫路の方だが、イボクサは知らんが「タコクサ」なら疣につければとれると茎から出る白い乳を子供のころ疣につけたことがあると教えてくれた。
タコクサはどんな草だろうか。
タコクサは兵庫県ではどうやら「スベリヒユ」の事らしい。
スベノヒユは茹でるとぬるぬるして食べられるが茎を折っても乳はでない。
ちょっと似ている「コニキシソウ」のことだろうか。
さすがに七十年も前のことはっきりとはしなかった。

椀状穿痕は多くの方が子供のころ草を石で撞いて遊んだと証言してくれている。
ただ、単なる遊び以外にその理由となる手掛かりは得られない。
今はまわりを見渡しても手に疣がある子供は見たことがない。
私が子供だったころは多くのこどもの手に疣があったような気がする。
ただ、疣があってもべつに気にすることもなく遊びまわっていた。
もっと昔はどうだったのだろうか。
疣のことが書き遺されたものを見たことはないがひょっとしたら随分多かったのかもしれない。
疣取りの石仏など多いからである。
疣は出ているもの、凹ませればとれると考えるのは自然じゃなかろうか。
そんな遊びまがいのおこないがあってもよさそうなものだが、全くの想像である。

2009.10.17(13:50)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
「調布市の石造物」という資料を開いてみると最初に飛び込んでくるのが薬師堂の薬師如来石像である。
しかも、その蓮台は石で打たれた穴があいていて、傍らに石が置かれている。
この石で叩いたものか、これは見にゆかねばならない。
薬師堂は京王線の飛田給にある。
石仏は地蔵や大日、如意輪、庚申像など沢山あるが薬師如来の石像は珍しい。
見にゆく価値は十分ある。
そんなわけでおととい出かけたのだが、そこには沢山の石造物があった。
そればかりではない。
それらの石造物に椀状穿痕がたくさん認められる。
調布というところはどこに行っても穴ぼこだらけじゃないか。
とまぁ、驚いた。

img094-.jpg

そこには行人塚というのがあった。
松前の意仙という人が此処に住み医を業とする傍ら薬師如来を信仰し人々に伝えた。
ここで入定したのだという。

元禄十四年辛巳年
円寂即翁意仙庵主 覚○
正月十二日 野口長兵衛

P1020921.jpg

この塚の右隣には水盤がありその裏に敷石供養塔 馬頭観音 庚申塔 青面金剛像二基がある。
その水盤にも穴ぼこがあるし、後ろの石仏たちにも叩かれた穴ぼこがある。

水盤には
文久元年歳次辛酉九月吉日
とあり、その縁には四隅の穴の他に幾つもの小さな窪みが取り巻いている。

P1020867.jpg

北所沢道としるされた文字庚申塔は

文化十五戊○歳
四月吉日
庚申塔
南相州大山

となっているがどうしたことだろうか。
そのてっぺんは穴ぼこだらけである。

P1020863.jpg

行人塚は入定した意仙の墓である。
その墓石のてっぺんに何と穴ぼこがあいている。
「この罰あたりめが」と言いたいところだが、だれが何のためにやったものかいっこうにわからない。

P1020870.jpg

水盤の後ろ、行人塚の右下に台石施主と記された塔がある。
また、左下には敷石供養塔がある。
明治十八年九月とあり、それらには穴ぼこはない。
すると穴ぼこがあけられたのはそれより前ということになる。

P1020868.jpg

穴ぼこに気を取られて肝心の石薬師を忘れそうになってしまったが、何処にもそんな石仏はみあたらない。
「おかしいなぁ、あるはずなんだけど」
とお堂をうたがった。
まさか石仏がお堂の中にはあるまいがと。
お堂は鍵がかかり、戸は開かない。
わずかな戸の隙間から覗くとそれはあった。
赤いものを身にまとっているようだが蓮台には穴ぼこがあいているのがみえる。
それにしても、文化財もこうした形で保管されてしまうと見たくてもどうしようもない。
諦めざるをえず、後ろ髪をひかれながら帰途についた。

それでもなお未練があったので調布の市役所にメールで問い合わせてみたところ、毎月12日に念仏講の人たちが集まって念仏会を開くとの事で部外者でも見ることができると返事が来た。
今はメールがあって便利になったものだ。
それなら出かけねばなるまい。

P1020930.jpg

この薬師如来は意仙みずから彫ったものという。
今日は月命日にあたるということで月番がお堂をあけ、ろうそくを灯し準備していた。
訳をはないとこころよく「どうぞどうぞ」とお堂にいれてくれた。
真っ赤な着物は帷子に袴のようだが何時から着せたものか、これじゃ身に穴ぼこがあるかどうかわからない。

P1020911.jpg

P1020908.jpg

蓮台には椀状の穴が穿かれている。
傍らの石は叩いた石ではなく穴のあいた石で願かけに奉納されたものであった。
この薬師は目の神様と信仰されている。
奉納の絵馬がかざってある。
穴のあいた石は目が見えるようにという願いからであろう。
月番は十時にお堂をあけ三時までにはみんなそろって念仏を唱えるのだという。
懺悔文のあと、薬師如来の真言「オンコロコロセンダリヤマトウギソワカ」を百回となえる。
参加する人はみな拍子木を叩き、年長者が数珠で数を数えるのだと拍子木と数珠を見せてくれた。

P1020914.jpg

P1020912.jpg

意仙和尚はそんな方法で念仏を指導したのだろうか。
そのころからずっと続いている念仏講なのだから。
この石薬師は露仏であったが弘化四年、堂宇が建てられ安置されたものだという。
まさか、お堂の中で蓮台を石で叩くなどということはしまい。
するとこの穴ぼこは弘化四年以前のものといえる。
意仙は入定、すなわち生き仏となった。
穴を掘って籠り中で鉦をうちながら果てるのである。
鉦が聞こえなくなるのを村人はどんな気持ちで待ったのだろうか。
今も念仏が続くわけはそこにある。
和賛をおしえてもらった。
帰命頂礼石薬師  由来を詳しく訪ぬれば  頃は元禄十四年  松前意仙と申す人  諸国をめぐりあつめたる  ごしょうの種をこの原に  撒いて残せし石薬師  御身はここに御入寂  散り残したる蓮華座に  香燈明をあげるなら  瑠璃の光をあらわして  如何なる願いも成就する  南無阿弥陀仏  南無阿弥陀仏

入定した意仙はその時涙ながらに土をかけられ葬られたはずだ。
近年、昭和四十七年にその墓は修復調査された。
地底に玉砂利をしきその上に座してうつ伏せの形の遺骨が見つかり、立ち会った東京学芸大宮田登・法政大益田勝美アジアアフリカ語学院岡田清子各氏も入定の形と判断した。
その時の写真を見せてもらうことができた。
その中にはカラー写真もはいっていたからなかなかのリアルなものであった。

P1020918.jpg

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赤い着物を着せる前の写真もあった。
右手は施無畏印、左手には薬の壺を持っている。
豪快なお姿といえる。
露仏だった時、行人塚の両端にある二つの塔を伴っていたという。
それには貞亨三丙寅暦四月十六日となっていて穴ぼこがあることから、石薬師にある穴と同じといえよう。
ここで興味ある話を聞いた。
念仏がおわり歓談の時間が終わるころにはとぼしたろうそくは小さくなる。
その小さくなったろうそくを妊婦のいる家庭の方が持って帰るという。
お産のときにこのローソクをともすと、燃え尽きるまでのわずかな時間で生まれるのだと。
無事生まれると新しいローソクを返すのだ。
石薬師の前には四杯のお茶を供え、念仏の後ではみんなこのお茶で眼を洗う。
あるいは体の悪い部分につけたものだという。
今ではローソクを借りる人もいないが、お茶は今でも手などにこすりつけるという。
こんな形で残っている信仰はずっと後世まで残してやりたいものだ。

P1020917.jpg


2009.10.06(11:01)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
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