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写真や絵手紙など牛鳴HPの玄関先です「牛鳴さんちのたからもん」

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久米川の梅岩寺は大きな寺である。
北側と西側は墓地でコンクリートの高い塀で囲まれている。
その南西の角だけはわずかに塀がくぼんでいてそこに二基の石仏がある。
一つは笠のついた庚申塔でありもう一つは草書体でかかれた馬頭観世音である。

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庚申塔は延宝五年 越谷小川村
馬頭観世音は天保二年四月吉日
なかなか立派なものである。
実はこの塀を道路に沿って南に下がるとそこにも塀の窪みがあって二基の庚申塔がある。
そちらは二基とも青面金剛像である。
今日は庚申塔の紹介ではない。
馬頭観世音の基台をみると穴ぼこが穿ってあるのだ。
ほとんど四隅の孔は外側に壊れて椀状の窪みは水がこぼれてしまうような形である。
もとは道路の脇にても建っていたのだろう。

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2009.07.29(16:01)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
狭山湖の東にある仏蔵院にゆくと驚く。
大きな宝筐印塔があるのだが、それが御影石の柵で囲まれて守られている。
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驚いたのはその塔が立派なこともさることながら、その基台にきれいに椀状穿痕が残っていたことである。
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ぐるっと穴ぼこが四方を取り巻いている。
誰の仕業か知らないが、みごとじゃないか、彫刻の一部のようにさえ思える。
この塔、宝暦五年の作だという。
境内を南にまわってみると八基の石仏が並んでいる。
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その中の笠がついた六地蔵石幢の台座にもおおきな凹みがある。
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この台座は道しるべになっていておもしろい。
(文久三年)
もっとおどろくのは、ふたつ左に飛んだ百番供養のてっぺんである。
叩かれて凹んだものか、蜂の巣状態になっている。

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この石仏のあった本来の場所、勝楽寺は狭山湖の湖底に沈んだ。
今でも狭山湖の地図を見ると勝楽寺という入江がある。
地名になるほど大きな寺であったはずだ。
狭山湖が完成したのは昭和九年である。
寺の案内によると昭和四年にこの地に移転したという。
これらの穴ぼこは移転する前にすでに穿がかれていたものとおもう。
右隣の道しるべ馬頭観音もへこんでいる。
道しるべとして機能していた時代の名残である。
湖底に沈んだ勝楽寺村の辻に立っていて、子供たちはここで草もちでも撞いて遊んでいたものか。
現在のような立派な寺では住職の目もあるし子供はうかうかとは遊べまい。

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2009.07.22(15:18)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(2)TOP↑
多摩湖の南側は青梅街道やそれに接続する街道近くに大きな穴ぼこのある馬頭観音や庚申塔などがあたかも街道筋で流行しているがこどくに存在する。
では多摩湖を廻ってみるとどうかと、東に回ってみた。
久米に仏眼寺がある。
その入り口近くに庚申塔がある。

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寛政元己酉年二月吉日
武州入間郡久米村講中四十五人
その台座にはあまり深くはないけれど叩いた窪みがある。
この右隣は奉萬誦法華経千部供養があって、そのてっぺんが凹んでいる。

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左隣には二十三夜待供養塔があって、その台座も凹んでいる。
いずれも多摩湖の南側で見たものより穴は浅くやさしい感じがする。
これは人口の数によるものかもしれないが、あるいは流行の端に当たるとも考えられる。
この仏眼寺の近くに鳩峰八幡神社がある。
その参道の石段の端にもわずかながら窪みが見える。
このあたりはまだまだ畑が残り、雑木林が残っている。
多摩湖が作られたのは大正五年に着工、村山上貯水池ができたのは大正十三年、村山下貯水池が完成したのは昭和二年である。
更に狭山湖が完成するのは昭和九年、このころというのは丁度子供が草の餅を撞いたという時期に合致するような気がしないでもない。
ダムの上と下では生活に違いがあったのかもしれない。
多摩湖や狭山湖の西側や北側ではまだ椀状穿痕を見ていない。

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2009.07.17(08:53)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
墓地というのは梅岩寺から二百メートルばかり南であった。
墓もあったが阿弥陀堂というらしい。
お堂の前には六地蔵があり丸彫りの地蔵、如意輪があった。

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丸彫りの地蔵立像は宝永二年の銘がある。
左の如意輪像は享保三年、右の石塔は奉拝善光寺如来とあり、享和三年銘である。
地蔵立像の台座は石質が違うけれど穴ぼこがもう崩れて穴の状態をなしていない。
これでは草の餅を叩くわけにはゆかない。
こうなると草餅を叩いて遊んだというようなものではなくて、何らかの目的で台座を叩きあった、恰もゲームのように大勢で競い合って叩き減らしたといった穴ぼこである。
奇妙なことに隣の如意輪は凹んでいない。
もっと奇妙な事は右にある小さな石の塔の右側面に仏像が彫ってあるのだがその顔の部分が叩かれて摩耗している。
つくられた年代が違うし、これらが並んでここにあったかどうか、それはわからない。
しかし、不思議な穴ぼこである。

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2009.07.14(10:00)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
久米川の梅岩寺は八十八観音が並んでいるし近いので何回か訪れたことがある。
しかし、これには気がつかなかった

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山門の前には広い道路が横切っているのでいつもそこから入っていた。
だから本来の入り口が百メートルも前にあるとは思わなかったのである。
そこには本来の寺の入り口には此処であるとばかりに結界石がたっている。
右側は不許葷酒入山門
     寛政四星飛壬子六月吉祥日
左側は青面金剛王 天下泰平 五穀成就
     寛政四載次壬子林鐘穀旦
とあり165cmもの高さがある立派なものである。
さて、この基台に穴ぼこがあいている。
見事にあいている。
写真を撮っていると近くに住む方が寄ってきて、この穴は子供が草をいれて石で叩いたものだと誇らしげに話しかけてきた。
わたしも子供のころ叩いたといわれた。
男の子でもままごとまがいのことをやったのか訪ねたら「やった」と。
年代は私と同じぐらいだろうか、すると昭和二十年ごろの話であろう。
すでにその時は穴があいていたという。
この辺の子供はみんなやったのか、ただ草をつぶすだけで楽しかったのか、大人に叱られなかったのか、とたたみかけて聞くと、だんだんはっきりしなくなってきた。
ほかにも叩いた石はないか聞くと、近くにお墓があってそこにお地蔵さんがあるからひょっとしたら同じように穴があるかもしれないと教えてくれた。

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しかしねぇ。
草餅を叩くのが目的ならば穴が外に外れてしまい臼の役目をしなくなってしまえばおしまいだとおもう。
草餅を叩くことが目的ではなく、石で穴をあけることが目的であったのではないだろうか。
明らかに穴が壊れるまで叩いて穴を壊しているようだ。
しかも、大きい穴の周りには小さい穴がとりまいている。
草餅をついたのはここに穴があったから遊んだにすぎないのではないか。
早速、近くの墓地に行ってみることにした。

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2009.07.13(09:27)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
石仏を訪ねていると仏像だけでなく犬や猿や天狗や河童まで出てきて面白い。
猿はその顔やしぐさに愛嬌があって驚かされる、これが江戸時代なのかと。
そうなるといきおい猿ばかり訪ねてみたくなるものである。
庚申塔や富士塚、山王さんや浅間神社に多いので訪ねやすくもある。
石仏は何故か明治以来邪険にされてきた。
猿だってそれを免れない。
近くに荒幡富士があるので、ひょっとしたら猿がいるかもしれないと出かけてみた。
案の定いるには居たのだが、下半身だけであった。
私の子供のころ、何故か「赤ガエルだけは食える」と言われていて他にもっと大きな蛙がいるのに赤ガエルだけは捕まえて食ったことがある。
食うといったって蛙など食える部分は腿だけだった。
皮をはぎ下半身だけ焼いて醤油をつけて食うのである。
少なくとも信州でよく食う、蜂の子や鉄砲虫、ざざむしよりはずっとうまかったとおもう。
荒幡富士の猿はその蛙を彷彿とさせる姿であった。
苔むして猿田彦の碑の前でなければ猿とはわからない。
蛙の下半身である。

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2009.07.11(13:58)|石になった猿たちコメント(0)TOP↑
中野の新井薬師の西側に北野神社がある。
そこには力石が恰もストーンサークルのごとく並んでいる。
中心は力石とは関係ないとおもわれる歌碑だけれど、力石もここまで並らぶと圧巻である。

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銘のあるものだけで12個ある。
どうしてここにこんなに沢山あるのかわからない。
中には沼袋というのもある。
沼袋は隣の駅だがそこの氷川神社におなじような力石場があるからだ。
力石は名前を刻んで奉納してしまえば力比べの道具としての役には立たないとおもう。
競技の終焉をかざるものか。
あるいは絵馬のようなものか。

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この力石の中に凹みがある。
手をかけるには小さいし位置も合わない。
それにしてもこんな石どこから探してきたのだろうか。

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2009.07.10(09:27)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
茸の菌は放射状に広がってゆくのだそうだ。
松茸やシメジなどひとつ見つけるとその近くを探すときっと見つかるという。
茸サークルというのだそうだ。
茸ではないが、遊びや行事の流行もそんな形で伝搬してゆくのかもしれない。
多摩地区には青梅街道や江戸街道などの旧街道筋に馬頭観音が多い。
東京から少し離れると馬主の個人が馬の墓としたらしい小さな馬頭観音をたくさん見るけれど、このあたりには馬の組合でもあったらしく大きな馬頭観音の塔がみられる。
そんな馬頭観音の基台に椀状穿痕があるものをこのところ幾つか見つけたので、ひょっとしたらまだあるかも知れないとあたりをつけて見て回った。
それは案の定あった。
青梅街道が東大和市で南に折れまがる奈良橋庚申塚からすこし東に入ったところに高木神社がある。
その神社の入り口の脇に石仏が七個ならんでいる。
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七つの石仏が並んでいるうちの小さい二個はこれらを移動した供養碑である。
真ん中の一番大きいのが馬頭観音で
文政十一戊子歳八月穀旦  とあり古くは江戸街道に面して立っていたものと郷土資料館のデーターに記されているものである。
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立川の幸町にあるものや東大和の清水にあるものと既製品のように似ている。
この基台にいくつも穴ぼこがある。
二段目におびただしく一段目にも二三ある
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この右側には笠のついた青面金剛像の庚申塔で
享保四己亥二月  武州多摩郡山口領
としるされている。
この庚申塔の基台にも穴ぼこがある。
写真ではわかりにくいけれど花筒や線香桶の穴の周りに盃状のものがならんでいる。
山口は村山貯水池で沈んだところ、そこから移動したのだろうか。
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更にその右にはほとんど馬頭観音だとわからないほど痛んだものがある。
側面に天保五年申年十月八日としるされている。(天保五年甲午の間違いか)
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この天部にも叩いたできたらしい凹みがある。
もともとこんな風に並んでいたわけではなく、どのくらいの範囲にあったものかわからないが石の窪みを作るという行事か風習はこのあたり、街道すじに広がっていたものではなかろうか。
いまでは博物館のように陳列されている。
ただ、不思議なことに一番左にある馬頭観音だけには穴ぼこがない。
流行が及ばない地区でもあったのだろうか。
基台に世話人 村役人と記されているところを見ると、そんな関係で叩けなかったのだろうか。
慶応龍○戊辰九月 
と左側に記されているが、欠けている○は集とおもわれ、そうなると明治元年かもしれない。
あるいは慶応から明治の時代にはこんな穴ぼこをつくる遊びはなくなっていたのかもしれない、などと考えると貴重な例になるではないか。
他の穴ぼこのある石仏から34年、40年経過していることになる。
天保五年の穴ぼこは叩かれてみすぼらしくなったのではなくて、時代的に風化したものに穴を穿ったようにみえる。
してみると、これらの穴は天保五年以降ということになり、しかもかなり遅い時期ということになる。

2009.07.08(08:49)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
多摩湖の南、青梅街道から蔵敷の厳島神社へ入る道の角に真言供養塔が建っている。

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光明真言一千二百萬遍供養塔
明治三十二年己亥秋彼岸吉日
としるされているから随分新しいものだ。
この中の基台に穴ぼこがあいている。
碁石のような黒石が置いてあり窪みに幾つか入っていた。
こんな碁石のような石はそのへんの道端には転がっていない。
何らかの目的のために備え付けてあるようにみえる。
穴ぼこにも関係があると思われる。

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2009.07.06(09:15)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
はりまぜ屏風にある「道灌山吹の里」の絵のいわれを聞くと「これを知らぬとはお前は歌道に暗いな」といってご隠居が七重八重の歌を書いてくれた。
持って帰ったところへいい塩梅に雨が降り出し、友達が提灯を貸せといってきた。
「提灯じゃ具合がわるい、雨具を貸せといってくれ」「雨具はいい、傘をもってるから」「持っててもいいから、雨具を貸せといったら提灯をかしてやる」「ならば雨具を」というと七重八重の歌を差し出した。
「なんだこりゃ疱瘡のまじないか」「これを知らんとはお前も歌道に暗いな」「角が暗いから提灯を借りに来た」ごぞんじ落語の道灌である。
その山吹の里に山吹の枝を差し出したというかの紅皿の墓がある。

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新宿六丁目、新宿文化センターの裏にある大聖院の駐車場の際である。
墓といっても青石の板碑で十三仏の種字のようだ。
役者などがよってたかって紅皿の墓に仕立てたものか。
守田かん弥の石柱がたっている。
この板碑の真ん中あたりに大きな凹みがある。
何の凹みだろうか。
焼夷弾でも破裂したものか。
このへんは芸能人の信仰が厚い所だ。
芸能人の卵がげん担ぎに叩いて破片を懐にしたものか。
ま、身を粉にして人を助けるのが神様だから、紅皿も神様になったに違いない。
山吹ひと枝でねぇ。
歌道に明るいといいことがあるもんだ。

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2009.07.04(06:47)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
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関東地方には秩父産の緑泥片岩を使った板碑、すなわち板石塔婆が多い。
それらは地域によって丁重に保存されていたり墓地の片隅に打ち捨てられていたりする。
東村山に廻田というところがある。
ずっと「かいでん」と読むのだと思っていたら、「めぐりた」というらしい。
というのは不動さまの板碑を探していて、「かいでん三丁目のお不動さんってどこですか」と訪ねたら「めぐりた」と教えてくれた。
くだんの板碑はこんな形であった。
スチール製の覆屋の中にコンクリートの台に固定された二つの破片である。
案内には  石志趣者読妙経一百三十六部
        読妙経交名板碑  応永十三年丙戌○十六日
        百人以上の法名 
とある。
橋として使われて四つに割れたもので其内の二つということである。
穴の意味については何も触れていない。
板碑はその役目を全うしたあとは石材として使われた。
この大きさなら立派な橋がかかる。
橋なら加工しないですむ。
そのまま川に渡せばいいのだから。
長さだって二メートルにおよぶ。

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これを見て、この穴をみて、大抵の穴ならば子供がままごとに叩いたものだろうとか、石の粉を薬にしたものだろうとか、博徒がげんかつぎに欠いたものではないかとか、何かの呪いかなどといい加減ながら想像できるものである。
これは、だめだ。
全く想像の及ぶ範囲を超えてしまう。
橋に穴を穿つ意味は見出せない。

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何の気なしに裏をのぞいてみた。
するとやっとわかった。
この板碑、橋にするとき裏を使ったのだ。
さすがに碑文を踏んでわたるには忍びなかったのだろう。
橋の角石などはよく叩かれて椀状穿痕がのこっている。
これもそのたぐいじゃないか。
えくぼのように幾つかの椀状穿痕が認められる。
その一つが貫通したのだ。
あるいは他にも貫通したしたところがあって橋は折れてしまったのだろう。
そう、だから前の穴は片岩特有の剥がれ方をした跡だったわけだ。
単に叩いただけなら剥がれたような穴にはならない。

2009.07.03(15:41)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
インターネットが身近になって便利になったものに地図がある。
グーグルアースという地図サイトはその場所の映像を表示してくれるのだ。
道路であればまさに車に乗って案内してくれるようなものだ。
石仏を訪ねるということは場所の特定が大変なものだが、この地図を使うと車の通れる道か、駐車できそうな場所かがわかるし、道の脇にある石仏なんかそのものが見えることになる。
これが田舎の片隅まで網羅してくれればこの上ないのだが、今はまだそこまではいってない。
「東京の力石」という本に東久留米小山の黒目川の中橋の近くに力石があるというのでグーグルアースで確認したら、すごい! 、画像が表示された。
これならわけはない。
あとはカーナビに位置をセットするだけだ。

P1020937.jpg

書籍の力石には穴があいていたから、椀状穿痕だと睨んで見に来たわけである。
くだんの力石は中橋のたもとにある石橋供養塔の前に据えられていた。
一番小さな石の裏側には大きな穴がある。
一番大きな石の穴はモルタルで埋められている。
ほかにも幾つか穴が認められる。
力石にはしばしばこんな穴があいている。

P1020939.jpg

持ち上げる時手をかけたものか、重さを計った跡か、あるいはほかに意味があるのか。
不思議な穴ぼこである。
ところが、石橋供養塔の台座にも穴ぼこがあった。

P1020944.jpg


この石橋供養塔は明治二十三年四月という銘がある。
するとこの穴ぼこ、つい先ごろあけられたものじゃないか。
力石がずっとここにあったものか、それはあやしい。
案内板にはこの石をもって坂を登ったとある。
確かに前の道は急な坂道になっている。
すると力石の穴ぼこもおなじころにあけられたものか。

各地の力石をみると江戸時代がおおい。
すると石橋供養塔の建つ前から力石はあったはずで、この辺が辻になっていたか、神社などがあったものか。
ただ最初から力石に穴があったかどうかはわからない。
そのことを覚えている人がまだ生きているんじゃないかとおもったりする。
それにしても、こんな石どこから運んできたのだろうか。
鷹野虎四氏によると江戸川区だけで82か所332個を確認したという。
異常な多さではないか。
こんな石が急に湧いてくるはずはない。
力石になるまえにも以前の神様として村境にあったにちがいない。
道祖神や庚申塔ができる前はその役目をずっとしていたにちがいない。
こんな石は全国の神社などに存在する。
その数はいったいどのくらいになるだろうか。



2009.07.02(08:00)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
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Author:牛鳴

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