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戦国時代の諏訪は痛ましい。
天正十年信長父子は高遠、諏訪を攻略し諏訪神社に火をかけた。
当然神罰の報いで四ヶ月後には明智光秀の謀反によって死ぬことになる。
諏訪は武田氏滅亡により信長の家臣の川尻与兵衛に与えられ、それもつかの間で、「信長死す」のしらせを受け、すかさず諏訪頼忠は故旧を糾合してたちあがり郡代の弓削重蔵を追い出してしまう。
やっと我が地をとりもどした諏訪氏は天正十二年あらたに金子城を築きそこに移る。
六年後、秀吉は北条氏を滅ぼし、関八州は家康のものとなり、家康についた諏訪頼忠は国換えとなる。
代わりに諏訪には秀吉の将、日根野織部正高吉が封ぜられる。
日根野高吉は元からあった茶臼山の高島城にも金子城にもはいらず、新たな城を築くことになる。
天正十九年に諏訪湖の中に張りだした小和田の扇状地に決め、翌文禄元年には突貫工事がはじまる。

ここ十年のあいだというもの戦国の世、諏訪は疲弊していたが日根野氏の施政は容赦なく、年貢は公七民三制でいやおうなしに取り立てられる。
逃避する者は連帯責任で隣近所が収めなければならなかった。
泥沼地への築城は困難を極め郡中の老若男女は夜昼なく駆り出された。
社寺の木は切られ、金子城は壊されその石は舟で運び、諏訪中の墓石はことごとく天守の土台として埋められた。
性急なる武人を奉行とし怠る者は生きたまま堀にうめ人柱にしたという。
妻子を連れ他郷に逃げる者、田畑を捨て隣国に去るものも多く、人々の山野に慟哭する声はたえなかったと伝えられている。
高吉は慶長五年諏訪で病死する。
跡目は子の吉明が継いだものの慶長六年には下野に左遷された。
ここで諏訪頼忠は十九年後、やっと諏訪に戻れたのである。

のちに豊後に移された吉明は父の五十年忌に下諏訪の慈雲寺に三メートルに及ぶ大きな墓を建てている。
諏訪人の日根野氏に対する憎悪と怨恨の情は深く、ずっと墓など粗末なものしかなかったのではなかろうか。
今日は花が供えてあった。

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2009.05.31(09:47)|未分類||TOP↑
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茅野の穴山に壺井八幡神社がある。
この神社に入ってみるといろんな神様があっていずれも立派なので何が何やらわからなくなってしまうほどだ。
壺井八幡は一番大きな木造の社だが、それぞれ摂社らしき石祠に向かう石の参道は鍵形に折れ曲がり太鼓橋や石の橋がかかっていてややこしい。
こうなると肝心の八幡神社の入り口というものがどこなのかよくわからない。
ともあれ、八ヶ岳に向かっているので下の方が入り口と考えると、入り口の方面に細かい彫刻を施した幟の柱石が立っていて、そのかたわらに巨大な石が二つある。
この地方は八ヶ岳の造山活動でできたらしいこんな石は良く見かける石なのだが、かといって何処にでもあるというものではない。
やはり、こんな石にはいわく因縁がついてまわるものだ。
諏訪地方には諏訪神社七石の縁起があるけれどその中には入っていない。
(すぐ近くの鬼場には御座石神社があって諏訪七石の一つ、御座石がある)

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これは武田信玄が腰かけた石だともいわれている。
信玄でなくても腰かけたくなるような石じゃないか。
この石、影向石で影向(ようごう)とは神様が降臨する石のことである。
というのは壺井八幡神社の境内にそれを示す石塔が建っているからである。
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天地海原
衆神等影向石
右側には天明八戊申歳とある。
原村郷史に十年ほど前、道路整備のおり十メートルほど移動したという記録があることから、信玄の腰掛石が影向石だと推察できる。
するというと、この石は道路にあったことになり、この石の塔もその近くにあったと思われるのだが、何故か離れ離れになってしまった。

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この石は一メートルほどの高さがある。
だから上は見えない。
隣の石に登ってみると、何と穴ぼこがある。
どうみても叩いて凹ませた穴ぼこである。
あぁ、ここにもあった。
なぞの穴ぼこ石。
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移動した証拠は残っていた。
石の下部に色の違いがみられる。
前は、黒っぽい下の部分が土に埋まっていたのだ。
するともうすこし左側が下がった形になる。
このくらいまで埋まっていると子供でもよじ登って石で叩くようなことができる。
まわりの田園風景に溶け込んで、いまにも子らが遊んでいるさまが想像できるじゃないか。

それにしてもどうせ移動するなら壺井八幡神社の境内に入れなかったのだろうか。
八幡さまの神域は冒せないものがあるのだろうか。

伊藤富雄著作集「諏訪神社の研究」に大和の鏡作大明神の磐座信仰についての記事があり引用文に
「又、東に影向石といふ大石之有り、この石上度々諸神降臨し座す」・・・この影向石の信仰は発展すれば神仏・高僧・偉人等の腰掛石となるは民俗学の教うるところである・・・云々とある。
また、同氏の「上代および中世の山浦地方」に、信玄の中の棒道「・・・乙事の上・・中新田・・穴山・・御作田・・・大門峠」とあり下の棒道「・・大井森・・乙事下・・中新田」とあることから、下の棒道は中新田で合流して穴山あたりでは上と中のみ通じていたことになる。
ま、信玄が腰かけた可能性は高いといえよう。

この石に神様が降臨したころは穴ぼこは無かったにちがいない。
神様の存在がずっと身近になって子らと遊べるほどになってから穴ぼこがあいたのだろう。
そうなってもまだ神様にちがいない。
さて、今はどうか、やはり神様だろうか。

2009.05.29(09:04)|穴ぼこだらけの神様たち||TOP↑
DSC_7502.jpg
下諏訪にある万治の石仏は山田の阿弥陀様である。
その阿弥陀様の首が伸びたと騒がれたのは三年ばかり前であった。
右の写真がその時のものである。
胴と頭のつなぎ目は隙間があって首のように見える。
前はこの隙間がもっと少なかった。
だから首が伸びたとミステリーじみたうわさが広まったらしい。
地元の新聞にも載った。
やれ、隙間に入った水分が凍って膨張し頭部を押し上げたとか、そんなことがささやかれていた。
それが今度行ってみたらちゃんと首が据わっている。
P1020208.jpg
ほとんどぴったりとしていて、あたかも首なんかない。
実はそんな騒ぎがあってから首を嵌めなおしたものだという。
氷の膨張する力は強烈だから首くらいの重さは持ち上げてしまうかもしれない。
しかし、持ち上がったとしても氷が溶けてしまえば自重でまた沈んでしまうんではなかろうか。
帰省したとき聞いた話ではこの話が持ち上がる前、何者かによって首が落とされたという。
すぐに元に戻したが、その時にきちんとおさまらず浮いた状態になってしまったらしい。
だれもなにも云わなければそれですんだものを、誰かが伸びた首に気が付いて新聞記事にした。
というわけで落下の危険もあることからきちんと工事しなおしたとか。
こんな仏像にはミステリーが付きまとったほうがおもしろい。
看板が立てられて正しいお参りのしかたが記されていた。
この石仏の周りを三回廻るのだという。
施遶ということなのだろう。
どこからそんな話が湧いたのかしらないが、周りをみんなでぐるぐる回るものだからびっくりして阿弥陀様、首をのばしたにちがいない。
こんな姿の後ろまで見られたら気になるからねぇ。
諏訪には死んだ人を弔うのに棺を左周りに三回廻る風習がある。
右遶三匝(うにょうさんそう)は正しい作法なのだが、あまりやられていないんじゃないか。
P1020209.jpg
ずっと前は後ろ側に草が生えていて後ろまでまわる人などいなかった。
2009.05.27(08:55)|石仏賛歌||TOP↑
かんかん地蔵すなわち地蔵を叩いて出た石の粉を飲めば病気が治るという穴ぼこ地蔵の写真を撮っていて、江戸時代のこととはいえ、本当に効くとだれもが信じていたのだろうかと疑問に思った。
もう、江戸時代とはいえ衛生観念はかなり高かったとおもうからだ。
石の粉だから飲んでも死にはしないとわかっていたとおもう。
多分に行事化していたのではないだろうか。
そんなとき、故郷にある永田徳本の墓を思い出した。
諏訪では「諏訪の歴史」という本を教科書のようにだれでも見ていた。
永田徳本は薬代を十六文しかとらなかったという徳のある医者で、諏訪で死んだ。
その墓は石で叩かれて薬にされたためにぼこぼこに穴があいている。
その写真が載っていたから覚えていたのだ。
これは見にゆかねばならない。
徳本の墓は岡谷の長地東掘の尼堂墓地にある。
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石積みされた高台の上に五個の墓がある。
真ん中の墓の屋根が一番穴ぼこがあいているから徳本のものだろう。
それ以外の四つはだれのものだろうか。
徳本はこの地で118歳で亡くなったという。
大変な高齢だ。
墓には乾室徳本庵主 寛永甲午二月十四日と記されていたそうだが、今はもう読めない。
御子柴氏の女を娶ったといわるが子孫がいるのだろうか。
左にやや大きな新しい墓ができている。
P1020204.jpg
藍塔の中には小石がぎっしりと詰まっている。
疣取りのまじないで、この小石を借りて疣をこすると取れるのだという。
効あってとれたときには倍にして返すからいっぱいになったらしい。
屋根はみごとに穴ぼこだらけである。
穴ぼこは隣にある墓にもおよんでいる。
後ろから見ても穴ぼこだらけだ。
P1020198.jpg
永田徳本はすでに伝説の人物となっていて、落語や講談のネタとなっている。

昔は殿様の脈をとるなどということはできず、名医といえども糸を結んで次の間から見立てた。
徳本とてはじめてのときは信用されず、試しに家老は猫に糸を縛りつけ脈をみせた。
徳本は犬猫ならば獣医に診せよと、看破って以降信頼されたと、こりゃ落語の話。
殿様でも十六文しか取らなかったと、こりゃ講談のはなし。
さて、こんな伝説の人物だが墓には厳然と穴ぼこがあいている。
実際に徳をしのんで墓石は薬として飲まれたものだろうか。

諏訪には六字名号すなわち南無阿弥陀仏の碑が二十以上ある。
これは念仏徳本(1758-1835)にちなむもので諏訪には文化十三年にきて念仏を広めたといわれている。
徳本上人と永田徳本はいつのまにか混同されてしまったのではないか。
念仏は子らの遊びの中にまでひろまって石叩きの遊びになったとしたらどうだ。
各地に残る謎の穴ぼこの謎を解く糸口になりそうな気がするじゃないか。


2009.05.25(12:10)|穴ぼこだらけの神様たち||TOP↑
昔、諏訪湖はずっと大きかった。
「諏訪湖の研究」の古地図に延久(1069)以前の図がある。
それを見ると私の故郷である高部の北はずっと湖である。
もっと下がって元禄元年(1558)の図でも諏訪湖は坂室付近まで続いている。
高部の反対側、すなわち北側はその諏訪湖の対岸に当たる。
そこにいまは武津という場所がある。
以前、まだ諏訪湖が大きかったころは鷹津という入江であったという。
そこに「こんぼった石」という石が残っていて舟を繋いだ石だと伝えられている。
P1020249.jpg
こんぼった石は、舟で漁にでた親を子たちがこの石を叩いて帰りを待ちわびたものだいう。
あるいはこの穴ぼこに油を注いで灯をとぼしたともいわれる。

諏訪では赤子のことを「こんぼこ」というが、走り回れるような子供はもはや「こんぼこ」とはいわない。
「こんぼこ」は縮めて「こんぼ」といったりする。
私は「こんぼった」とは「こんぼが生まれた」ではないかと勘繰っている。舫石(もやいいし)は舟を繋ぐ石である。
高部にも子袋石という石があって舟を繋いだという伝えがある。
子袋石もこの石を見ても舟を繋ぐことは難しそうな気がする。

石棒で穴ぼこを叩き、「こんぼうめ」「こんぼうた」と叩いた石を放り出した。
そんな遊びがあったのではないかと勘繰っている。

舫石(もやいいし)は舟を繋ぐ石である。
高部にも子袋石という石があって舟を繋いだという伝えがある。
子袋石もこの石を見ても舟を繋ぐことは難しそうな気がする。

九州国東半島にある燈明石は十二個と七つの穴があり、十二支と北斗七星を現していて本命星信仰とかかわっているという。
その穴に灯油をいれて燃し病気平癒を祈祷したとの伝えがある。
武津のこんぼった石の、灯をとぼしたという伝承と類似するところがある。
P1020252.jpg
中には灯油を入れればこぼれてしまいそうな斜面にあけられたものもあるものの、最初からこの傾きであったわけはなく、水平をとればなおりそうだ。
残念ながら今回は穴の数を正しく確認できなかった。



2009.05.24(10:00)|穴ぼこだらけの神様たち||TOP↑
清里から韮崎に下る脇道に上津金の集落がある。
その集落の道祖神は石組の高い所に鎮座し垣根を巡らせ鳥居が建っている。
P1020495.jpg
急な石段が付いたたいそう立派な作りである。
その石祠が面白い。
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破風を支える石の柱の下はなんだろうか。
邪鬼のつもりだろうか。
猫が丸くなっているようにみえる。
P1020498.jpg
石段の下の左側の石の柱には穴ぼこがあいている。

2009.05.23(08:30)|穴ぼこだらけの神様たち||TOP↑
小淵沢へ出ようと富士見の茅野小淵沢韮崎線を甲斐駒の山並みや田圃を眺めながら走っていると道祖神場が目についた。
双体道祖神と石の祠がならんでいる。
このあたりには割に多い形である。
P1020337.jpg
向かい合いの双体像は基台が新しく、もとからここにあったのかどうかはわからない。
良く見かけるわけありの形の道祖神だが二つに割れているものを繋ぎ合わせている。
こんな頑丈な石が何故こんな風に真っ二つに割れてしまったものだろうか。
道祖神や地蔵、庚申塔など、石であることからくる安心感が存在するのではなかろうか。
叩かれようが、倒されようが、ひっくり返されようが、転がされようが、火にくべられようが、壊れることはなかろうと、随分過剰な要求を強いられてきた。
はやり病を防ぎ、悪霊の侵入を防御し、婚礼を取りまとめ、赤子の安産をつかさどり、富を求められ、時には性急な者どもの腹いせにあったかもしれない.

このあたりお事八日には牡丹餅を顔に塗られるのは当たり前だった。

朝一番早く牡丹餅を塗ったものが一番いいところに嫁に行かれると、年頃の娘がいる家は暗いうちに起きて走ったときいている。
今はもうそんな風習はしないかもしれないが、年寄りに聞けばついこの前までやっていたと話してくれるはずだ。

隣に大層立派な石祠がある。
その破風の中に邪鬼なのか鬼なのか、おもしろい顔の彫刻がみられる。
P1020341.jpg
ゴリラのような面構えじゃないか。
夢中になって写真を撮っていると、下部の穴が気になった。

この穴は一体何に使ったものだろうか。
何も中に入っていないが、火でも焚きつけたのだろうか。
そんなことを思いながら基台に目をやると、何と、凹んでいる。
穴ぼこがあいている。
P1020349.jpg
水をかけてみると、その穴ぼこははっきりと現れる。
石で叩いた跡である。
そんな穴ぼこは注意深く探すと、左右の基台に幾つか確認できる。
これはいったい何の穴ぼこだろうか。
道祖神の謎は深まるばかりだ。

2009.05.21(10:54)|穴ぼこだらけの神様たち||TOP↑
埼玉県は富士見市とふじみ野市が隣り合っていてややこしい。
ややこしいふじみ野市の富士見市に近いところに安楽寺がある。
そのややこしい場所の安楽寺は大林山観量院という寺号があるというからまたややこしい。
ふじみ野市の文化財に地蔵堂の木彫があって、その地蔵堂というのはこの寺の西院にあたるというからまたややこしい。
P1020129.jpg
そのややこしい文化財は古めかしい木の厨子にはいった金色の小さなもので地蔵のようにはみえないからややこしい。
隣にはずっとおおきい厨子にはいった木造の地蔵立像もある。
そのほうが本尊というように真ん中に立っているが文化財には認定されていないようだ。
ややこしいねぇ。
地蔵というものはじつにさまざまな形をみせるものである。
その地蔵がある地蔵堂の脇に石の地蔵像がたっている。
こちらはかなり大きめで錫杖をもった良く見かける形の石の地蔵である。
そんな地蔵たちをカメラに収めたりしているとき石の地蔵がかなり痛んでいることに気がついた。
P1020142.jpg
舟形の光背の縁はぼろほろになってのこぎりの歯のようだ。
顔はすりへっていて目鼻がない。
どうしたんだろうか。
今度は目を落として台座をみた。
穴ぼこがらしき跡がある。
叩かれたものか。
P1020150.jpg
乾いているとよく分からないので水をかけてみた。
明らかに両の脚の左右に凹みがある。
台座の線香の皿とその両脇にある花生けをいれる穴の隣に窪みがある。
このお地蔵さんもまた、穴ぼこ地蔵さんであった。
ややこしいなぞの穴ぼこ地蔵である。
2009.05.15(09:45)|穴ぼこだらけの神様たち||TOP↑
関というのは武蔵関のことである。
青梅街道沿いの関町一丁目北側に地蔵堂がある。
P1020068.jpg
たいそう大きな地蔵立像で総丈二メートルにもおよぶ。
右には大日如来、左には勢至菩薩の像が同居している。
青梅街道拡張の際にここに移動したというからもともとこの三体が一緒にあったのか疑わしい。
新編武蔵風土記稿に「石地蔵像坐像長六尺青梅街道ノ北側ニ立テリ 関ノ地蔵ト云 祈願ヲナスモノ石ニテ打テバ子ノ音アルヲモテ カンカン地蔵トモ云」との看板がある。
花や線香が置かれているところを見ると、地元ではいまでも信仰しているようだ。
信仰のさいに石で叩いたことからかんかん地蔵というらしい。
実際に叩いてみるとかんかんといったカンだかい音ではない。
こつこつといった感じの音である。
足の部分が白く見えるのは叩かれて身が細り倒れる危険から近年セメントで補修したという。
これもやむをえないというものか。
像は黒く見えることから火災にあっているのではないかともおもう。
足の補修はその名残かもしれない。
足だけではなくいたるところ接着剤で固められているようだ。
叩かれてへこんだだけならこんなに痛むことはなかろうとおもうのだが。
P1020051.jpg
かんかん地蔵といわれるものは他にもいくつかあって、叩いて出た粉を薬とするもの、叩いたかけらを銭が溜まるということで財布に入れるもの、自分の悪い場所と同じところを叩いて身代わりになってもらうもの、単に信仰時叩くものがあるようだ。
これはどれに相当するか、それはもうわからない。
良く見ると叩かれた場所はお地蔵さんの体だけではない。
蓮の花の台を見ると凹みが並んでいる。
P1020057.jpg
蓮座だけではない。
基台もへこんでいる。
P1020076.jpg
それもおびただしい数だ。
大勢が輪になって叩いたように見える。
こうなると体の悪い部位と同じところを叩くというのは消える。
叩いたかけらや粉を得るというのも消える。
何らかの行事か遊びなどで大勢が長いこと叩いたものと思う。
左右の像には建立の年号が刻まれている。
享保十四(1729)寛保元年(1741)
おなじようにそのころ、江戸時代後期のものではないかとおもう。
ただ、まさか造られてすぐ叩くことはあるまい。
叩かれたのはもっと後だろうねぇ。

落語に「らくだの馬さん」というのがある。
ラクダは馬さんのあだ名である。
あばれもんで厄介もんだった馬さんがフグに当たって死んだ。
そこへ馬さんに輪をかけたような兄貴分の半次がやってきて、飲むのを口実に葬式をだすという。
丁度くずやがきたので長屋にある家財道具を処分してついでに大家に香典をもらうべく使いをたのむ。
けちの大家が断ると馬さんの死体をくずやに担がせて本当にかんかんのうをおどらせる。
大家はたまらず香典を出す・・・・。
かんかんのうは江戸時代にはやったおどりで九州に発し全国的に流行したらしい。
江戸では禁止令まで出たのだという。
かんかんのう  きゅうれんす  きゅうはきゅうでえす  さんしょならえ・・・
かんかんのうとは中国語で「看看奴」みてみて私を見てという意味らしいのだが、あとのきゅうれんすからの歌詞の意味ははわからない。
わからないまま替え歌となっていろいろなことがうたわれたらしい。

かんかんのう 観音も殺せとは できないわぇ
さあ ひどいシラミでも 殺せるものかい やんろ 
血肉を分けた仲じゃもの

かんかん坊主というのもある。
鐘を叩いて念仏を唱えてまわる願人坊主のことだが、寺を持たない乞食坊主だからそのおこないは自由奔放であったろう。
当時学校などなかった子どもたちを巻き込んで地蔵を叩きながら一緒にかんかんのうを踊ったなどと想像をたくましくしてはいけないだろうか。
凹んでいる石仏は寺のない道端の地蔵や、村はずれの道祖神、角の庚申塔、鎮守の森の石段など子どもたちの遊び場であることがほとんどだから。

落語の方は香典で酒を買い、月番に料理を作らせ飲んでるうちに屑屋も酒乱となって二人して酔っぱらう。
漬物桶をせしめて死体を入れて焼き場にかつぐ途中で桶の底が抜けてしまう。
探したが馬さんはみつからず橋の脇で酔っぱらって寝ていた願人坊主を入れて焼いてしまう。
熱さで酔いがさめた坊主はたまらず「ここはどこだ」「火屋だ」「冷やはもういいから燗にしてくれ」と落とす。

2009.05.06(08:53)|穴ぼこだらけの神様たち||TOP↑
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