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京王線仙川駅を下りて甲州街道に出るとすぐに昌翁寺がある。
その山門の傍らに三基の石仏がある。
R0010428-.jpg
寺はこれらの石仏とは比較できないほど新しく、昌翁寺の中には他にこんな石仏のように古を連想できるものはなにもない。
甲州街道に面しているからずっとこの近くにあったものかもしれず、この寺とは関連がないのかもしれない。
左右の像は三猿を伴う庚申の青面金剛像であり、方々で見かける形のものだが、よく見ると叩いて穴になった凹みが幾つもある。
こういった凹みは石仏を訪ねていると時々みかけるけれどその理由はわかっていない。
多くは道祖神の基台の囲み石や道祖神そのもの天部、神社の石段の脇石の上、石祠の屋根などに残されているものだが中には狛犬の頭などというのもある。
ほとんど上から石で叩いて凹ませたものらしい。
これらを全部一緒にしてはいけないかもしれないが、理由の片鱗も伺う資料の無いことは不思議なことである。
よく石仏関連の書籍で言われているのは、その理由はわからないとしながらも

1 子供がこの穴に餅にたとえて草を入れて石でたたいたままごとの跡
2 この穴に溜まった水を疣につけると取れるというまじない
3 長年の雨水による浸食

これらの中でもままごと遊び説はもっともらしく、いかにも当時の村の女の子達が赤子をおぶって遊そんだとおもわれるような場所から考えてもうなずけるものである。
あとはどうもこじつけの感がぬぐえない。

ところがこの仙川の青面金剛の凹みをみると、それのいずれも否定されてしまう。
穴が垂直の面に凹んでいるからである。
わざわざこんな形で餅つき遊びはしないし、これでは疣とり水も溜まらない。
まして雨水では横に磨耗するはずも無い。

驚いたことにこれらの穴は大小不規則に開けられていて、右の像には天辺部にも穴がある。
しかも、これらの穴を穿ったとおもわれる傷は青面金剛の顔にも認められる。
仏像の顔を叩くなどということは普通には考えられないことである。
いったい何があったというのだろうか。
R0010419-.jpg

R0010424-.jpg

右には
元禄三庚午年霜月二十六日(1690)
庚申待下仙川村同行十人
田辺左五兵等九人
本願圓盛敬白
左は
元禄十丁丑年十一月八日(1697)
下仙川村講中
守屋長十郎等十名
中は
奉納 大乗妙典○○・・宝暦八才・・・(1758)
(これは回国塔で霊場巡拝の記念とおもわれる)
これらがもともと一緒にあったものかどうかは疑わしい。
国領、柴崎など近くの甲州街道沿いにある庚申も似たような形のものが残されているがこのような凹みが認められるものはない。
(八王子に例を知るのみ)

元禄といえばそんなに古いわけではない。
一体何があったというのだろうか。
作られてすぐに叩かれるようなことはないとすれば江戸時代後期から明治の初めぐらいの100年ほどの間の出来事である。
忠臣蔵の話だって昨日のように演じられているほどうわさや話は残るものである。
何故忽然とこの行為のことが忘れ去られてしまったのは何故だろうか。

庚申塔が仏像の形から文字や猿田彦に変わるのは国粋学者の影響で改刻された例もあるというからそんな部類の破壊行為とも考えられるものの、それにしてはあまりにやることがねちっこい。
やはり道祖神場に多く見られる一連の凹みであろう。

また、道祖神を例にすれば何かとてつもなく大きな災いが村に降りかかったとき逃れる方法として身代わりに石仏や道祖神を火にくべたり高いところから転がりおとすことがあるという。
棒で叩いたり縄で縛り上げたりするともいう。
そんな災いがあったのだろうか。
そうだとすればそんなうわさや話は古文書となってみつかりそうなものだがいっこうにそんなものは発見されない。
また、こういった凹みは強く叩かれたものではない。
そんな力で叩いたら割れてしまうだろう。
長い間コツコツと叩いたものか或いは叩くというより擦ったと云った方が云い得ている。
目黒の行人坂にある大圓寺にとろけ地蔵というのがある。
26.jpg
もう二十年ほど前に見たものだ。
そのときは石が溶けるような要素に一体何がと考えたものだが、この仏像は目黒川から引き上げられたという記録から戦火の熱によるものかとかんがえていた。
(先般訪ねてみたところ赤い涎掛けがびっしりと巻きつけられていて写真に撮ることはできなかった)
いかにも石に彫られた地蔵が溶けてしまったかのような形だが、仙川の青面庚申をみてからだと、石が溶けてしまったなどと考えるより、これも形をなさないほど叩かれてしまったもののようにみえる。
溶けたように見える部分が正面だけだからだ。
この像が地蔵である形跡は一切無い。
基壇を見ると三猿があった跡のようにも見える台があり、足の形から推測すれば青面金剛像の可能性が高いのではないか。
私は
これらの凹みが道祖神に多く見られることから道祖神かそれよりもっと前からあった道祖神が受け継いだであろうミシャグジ神などに対して続けられていた子孫繁栄を願う生殖的な行為を真似た一種の行事ではないかと考えていた。
そんな行事が野蛮であり卑猥であるという理由から明治になって忌み嫌うようになった為に急速に消えてしまったものではないかと。
丁度、かつては沢山あったであろう男根を象った石棒がなくなってしまったように。
(一箇所に集められて残っていたり、それが取り去られて神社などに隠されている例がある)
庚申塔はミシャグジ祠よりずっと新しい。
とはいうものの、同じ道祖神場と呼ばれる村の境目にあることから江戸時代にはみんな同格同神にくくられてしまったのではないか。
行事として叩くのはどれでもいいわけだ。
幾らでも想像できるのは他に手がかりがないためで、かえって学者先生のおん説などない方がロマンがあっていいじゃないか。
願わくはこの残されたコードが消えうせてしまわないうちに、わらべうたや日記などの古文書が見つかって理由が明らかになって欲しいものだ。


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2008.12.05(17:19)|穴ぼこだらけの神様たち||TOP↑
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