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昨年、母の七回忌にふるさとへ帰る途中、山浦の南大塩の道祖神によってみた。
そこの双体道祖神の段の前に先別れした大根が供えてあった。
更にとなりの石祠には二なりの茄子が供えられていた。
Dsc_7491.jpg

Dsc_7493.jpg

茄子は日が経っているらしく腐り始めていたし色が黒いのでわかりにくいが畸形の茄子である。
暫く待ってみたが誰もが来なかったので何故これを供えたのか理由は聞くことはできなかった。
次の日、小町屋の道祖神場で石祠に畸形の大根が二本上がっているのを見た。
Dsc_7561.jpg

小町屋は私のふるさと、高部の隣村である。
そんな風習があるというような話は子供の頃から聞いたことが無い。
あるいはいままで気に留めてもいなかったせいか。
たった二日で三枚の写真が撮れたくらいだから、よくある風習なのかもしれない。
お袋でも居れば聴けたものを七回忌とは。

さて、先だって富士見の道祖神を訪ねた。
富士見の栗生の道祖神場には剥げ落ちた双体像に大きな石灯篭があり、観音さんや幾つかの石祠がある。
その石祠の中には肩に手を回して盃にお神酒を注いでもらっている双体像が収まっている。
なんともかわいらしい。
その石の祠の上面をみると交差した大根が彫られている。
Dsc_0875.jpg

ちょっと判りにくいがとなりの若宮の道祖神場にも同じような石祠があった。
DSC_0929富士見若宮

家紋の「違い大根」か「違い丁子」のようにも見える。
二俣の違い大根は聖天の紋章といわれている。
道祖神は仏教色が薄いはずだから大聖歓喜天とは繋がらないとおもうものの、二俣大根などを供えることからすると何かの関連があるのかも知れない。
二俣大根は人の肢体に似ている。
それが交差しているのだから双体道祖神には付き物のように賽物となったものかもしれない。
時に小石が乗せてある。
それは鳥居の上とか石祠の屋根のこともある。
大根が無ければ代わりに小石をおいたものか、それらの小石は昂ずれば丸石や石棒に似たものとなるのかもしれない。
いずれにしても昔はそれなりの願い事があったとおもう。

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2007.12.29(11:30)|道端の神 道祖神庚申コメント(0)TOP↑
伊那箕輪町の長岡にある長松寺の本堂前に守屋貞治のみごとなお地蔵さんがいる。
文政十年(1827)から百八十年もたっているというのに、いま貞治が彫り上げたばかりの如く新しい。
簡単な覆屋に入っているから暗いけれど近寄ってみると体は磨かれて光っているから神々しいばかりだ。
高遠石工の守屋貞治は三百を越える仏像を彫り各地に残しているが、これほどみごとに保存されているものは多くない。

Dsc_2171.jpg


このお地蔵さまを造るにあたって諸費用を詳細につづった記録が世話人だった家に伝えられていた。
それを見ると一体の地蔵尊をつくるのに村中総出の大仕事であったことがわかる。

地蔵建立諸入用控帳
文政十年亥年 世話人与市 善五郎
御尊体二尺三寸
蓮花七寸柱などあわせると総御丈 
七尺八寸


大きなお地蔵さまである。
難しい言葉もあるのでおおよその要約だが

石屋定治郎手代藤兵衛
 八月四日
 八月十一日から二十二日(月末九日休み)
 九月一日から二十八日(月末二日休み)
 十月一日から二十八日(月末二日休み)
 十一月一日から十日
      〆て七十八工 二両二分三朱
石屋定治郎
 九月五日から二十九日(月末一日休み)
 十月一日から二十九日(月末二日休み)
 十一月一日から十日
      〆て六十三工半 二両


DSC_2223長松寺


八月四日手代藤兵衛によって石の詮議から始まっている。
休みは月末少しやすむだけでほとんど毎日働いていることがわかる。

石詮議 八月四日 二人
石ほり 八月十一日 五人
     八月十二日 一人
     八月十三日 一人
石だし 八月二十四日 十一人
     九月二十六日 四十一人
堀切  九月二十五日 五人
     九月二十七日 一人
ふち立 十月二日 一人
石だし 十月四日 三十四人
     十月五日 二十一人
石つき 十月七日 七人
石いれ 十月八日 二十三人
石つき 十月九日 七人
     十一月一日 六人
餅つき 十一月九日 六人


切りだした石を運びだすのに大きな工数がかかったことがわかる。
石は御尊体のほかに蓮花・立角・中台・角台・芝付の六個である。
これらの人足は村中の総出によるものにちがいない。
九月から彫りにかかっているあいだ、村の衆は設置する場所を掘り、石を敷き、つき固めるという作業をしながら出来上がるのを楽しみにしていたのである。

DSC_2224長松寺


十一月十日開眼供養の前日に六人もで餅つきをしていることからも、この普請への思い入れが感じられる。

支払った費用の一部をあげると
石屋定治郎・藤兵衛への
作料 四両壱分二朱三匁七分五厘
飯料 一石七斗七升
村方石屋へ渡し分 金三両三分外米一石四斗
大工木挽  銀十二匁 外に米代四匁
黒鍬渡方 銀十四匁
石だし酒代 銀四十三匁
石だし米代 銀十五匁
鍛冶炭六俵 銀九匁
貞治殿祝儀 金一分
藤兵衛祝儀 金二朱
村方石屋七人 銀十二匁
金百疋 目明け和尚さまに差し上げ分
銭二百文 目明け法印さまに差し上げ分


  等など

大工木挽きというのは覆屋をこしらえたものか。
鍛冶炭は鑿の焼きいれに使うもの、六俵とは随分使うものだ。
文政十年といえば定治郎六十三歳だから既に高遠石工守屋貞治として名を知られた時期であることにちがいないのだか、手間賃が特別に高かったとは思えない。
作料が弟子の藤兵衛と変わらないからである。
それに守屋貞治ではなく石屋定治郎といってることからもわかる。
作料のほかに飯料というのがある。
ほとんど毎日小屋に泊りがけで食事の世話は村のかみさんが当たっていたのかもしれない。
開眼供養に和尚さま、法印さまへというのもある。
それにしても随分の入用である。
これらの入用は村人の寄付によって集められた。
金三両(租寛尼一人)
金一分(六人)
金二朱(二十九人)
金一朱(拾六人)
銭二百文(二十四人)
銭一百文(二十九人)
銭五十文(三人)
銭四八文(六人)
銭二四文(四人)
銭一二文(三人)
銀三匁(一人)
銀二匁(三人)
空欄(九人)
計百三十四人


租寛尼という方が金三両をだしているが、発願者の尼僧だろうか。
他の百三十三人の中に百文、二百文といった寄付もある。
なんと何某の母、隠居、から寺の小僧まで名を連ねているのである。

金と銭数え方も違う、米も対価であったから今の金額に単純に直すわけにはいかないがおおよそ換算すると六十六万円強になるという。
三ヶ月ほどの記録しかないが、その前に作れるか造れないか、そんな議論がずっと続いてやっと建立に漕ぎつけたものとおもう。
それほどの想いでお地蔵さまを造ろうとした背景には何があったのだろうか。
二年前には幕府から異国の船打ち払い令が発せられ、江戸では四谷怪談が演じられている。
このへんでもやっとゆとりが出来、勉学の志がさかんになった。
とはいうものの、村人総出の熱意には貞治も力をいれずにはいられなかったであろう。
開眼の喜びも村中のものであったはずだ。
それはお目明けの際の酒代、諸買い物、餅代などとして
〆て金拾三両三分二朱
銀百三十三朱五分二厘五毛
銭四百文 此銀七匁七分五厘

とある。
喜びあったさまが感じ取れるじゃないか。

DSC_2226長松寺


いまだに新しいのはそれからずっと大事に護られ信仰されてきた証拠であろう。

お地蔵さまの災難は明治にもあった。
長松寺の記録では廃仏毀釈で長松寺も土塀や山門が壊され始めたとき、時の住職祖梁は「いたずらに座食するに忍びないので現在所有している田圃、山林、器材などを保全して帰農したい」という趣旨の嘆願書を松本藩に提出した。
それまで寺の権力は大きかったので大抵の和尚は藩政にたてつくことはしてもへりくだることはしなかったらしい。
これが功を奏して受け入れられ、取り壊しは山門土塀だけですんだという。
この寺の隣は鎮守の八幡さまである。
この和尚の機転がなければ真っ先に壊されていたはずだし、貞治仏もどうなっていたかわからない。
お地蔵さまを作りたいという当時の村中の総意をこの祖梁和尚は知っていたにちがいない。
あるいはこの貞治仏にそれが表れているのかもしれない。

このお地蔵さまの値段、村人の負担は大きかったけれどその喜びからすれば決して高いものではなかった。

Dsc_2206.jpg

  
   (伊那市 長松寺)<6/19稿の更新>



2007.12.17(09:47)|貞治仏コメント(0)TOP↑
Dsc_3138.jpg

あんまり
紅葉がみごとだから
うしろむいて
つい見とれてしまった

   (東村山 梅岸寺)
2007.12.14(08:14)|未分類コメント(0)TOP↑
この人はなかなかいい顔を見せてくれない。
それは本堂裏の鬱蒼とした大木の茂る墓地の中に立っているからである。
あたかもその躰を守っているかの如く樫の巨木と杉の大木が左右に寄り添っている。
その葉影のせいで何時も顔に陽がささない。

それが十二月に入って、紅葉に夕方の陽が差し込むこの時期だけ、その照り返しでまるで生き返ったかのように赤く染まり、紅潮した少女のような顔をみせてくれる。

Dsc_3194.jpg


あえてこの人といったのは観音様らしくない姿だからである。
右手には未開蓮を持っていて、左手は与願印、聖観音のようだが頭の上には顔よりも大きな牡丹の花冠を乗せている。
そんな観音様はいない。

掩粧月光院殿露滴栄秋大姉 霊位
寛文十一年
守田茂兵衛娘也十七歳
としるしてある。
だから観音様じゃない。
ここ飯能で十七の歳で亡くなった娘のお墓である。
露滴栄秋とは何とも麗しい響きの名前じゃないか。

守田茂兵衛とはどんな人だったのだろうか。
守田茂兵衛という名前からは庄屋か商人のような人を思い浮かべていた。
寛文十一年とは将軍家綱の時代、百姓や町人が力を伸ばしてきた時代だからである。
ここ飯能は江戸に杉の良材を積み出す中継地として栄えた土地である。
入間川で筏を組み荒川を経て千住の木場に運ぶのだ。
能仁寺の過去帖には守田茂兵衛は中山勘解由公内と記録されているという。
中山氏は武蔵七党、丹党の流れをくむ家柄。
その系図を見ると、戦国時代の家仲に中山勘解由という肩書きがある。
その子家範、孫の照守も勘解由である。
中山照守は北条氏に属していたが八王子城が落ちた後、徳川家康に召し出された。
槍と馬術の名手であったからである。
関が原の役では徳川秀忠に従って上田城の真田昌幸の固い守りに苦戦しついに関が原の戦には間に合わなかったというエピソードがある。
しかし照守の子孫は徳川家の旗本として幕末まで続いた。

中山氏系図


守田茂兵衛は勘解由照守の直系の誰かに仕えた重臣であった。
その箱入り娘が十七で亡くなったのだ。
その娘が立つ場所は中山氏一族の五輪塔がずらりとならぶ墓地の段基にある。
しかも、照守公の墓のすぐ前である。
照守は既に寛永十一年で亡くなっている。
すると照守直系のだれかの腰元か側室であったか。
腰元ぐらいでは院殿号は怪しいから側室であったのだろう。
照守の子、直定は御先手弓頭であった。
親譲りの馬術の名手で将軍に指南するほどであったという。
しかし、年齢から察すると孫の直守だろうか。
直守(寛永十年~貞亨四年)は後に大目付にまでなった旗本である。
寛文十一年には四十四歳である。
ところがこの直守には正室がいる。
小田原藩主の旗本大久保教隆の娘である。
子も四人いる。
正室が妾をどうおもったか、そこまではわからないがこの側室が何らかの理由で早死したからこそ波風立たずに出世したのかもしれない。
十七歳というから親御の悲しみは思うに余りある。
頭に乗せた牡丹の花束はその悲しみの深さを物語っている。
牡丹は百花の王である。
何時までも美しくあって欲しいと願う親の気持ちであろう。

守田茂兵衛もまた延宝四年に亡くなっている。
娘が死んでわずか五年後のことである。
十七の子がいるのだからそんな早死する歳ではなかろう。
その茂兵衛の内儀はこれより三十年も後、宝永三年に亡くなっている。
するとやはり娘の死の哀惜が茂兵衛の寿命を縮めたものではなかろうか。
こんな立派な墓碑を作らせるくらいだから。

Dsc_3106.jpg

あらためて見直してみるとやはり武家の娘らしいきりっとした顔立ちである。
どっしりとした少し前かがみの姿は石なれど気品に満ちた色気さえ感ずる。
よくぞ残してくれた。
親の愛惜は今に伝わっているぞ。
それにしてもこの人を彫った石工は誰だろうか。
     (飯能 能仁寺)

花冠と頭部はセメントで接着されている。
接着されたのが何時かわからないが接続の部分はちょっと不自然に見える。
冠に相当するなんらかの形があったものか。
墓碑として観音像をつくるのはこの時代から始まり、以降流行した。
それらの多くはこんな大きな丸彫りでなく小さな舟形光背のものが多い。
となりに地蔵尊型の墓碑がある。
それとの関係は不明。
茂兵衛の墓もここにはない。
直守は十三で父の後を継ぎ、御先手鉄砲組頭であったが天和二年当直をとかれ与力同心を指揮して不審者を追補する火方改加役となり、当時横行した火付強盗、鶉権兵衛を首領とする盗賊団を捕らえ海老攻めなどで折檻したことから鬼勘と渾名された、いわゆる火盗改めの走りである。
その功で貞亨三年には大目付に昇進している。
長谷川平蔵と並んで捕物帖になっているから興は膨らむばかりだ。
中山氏一族のゆかりの地、飯能に下屋敷があったのか守田茂兵衛は飯能にいたのか、江戸としげく行き来していたのかなど興味は尽きない。
2007.12.11(10:32)|石仏賛歌コメント(0)TOP↑
小さいころ見たある夢を今もずっと覚えている。
それは波にのって川を流れ下ってゆく夢と、雲や鳥に乗って空を飛行する夢である。
そこから見えたものなどは何も覚えていない。
ただ空間を飛び、流れてゆく感触だけが記憶に残っている。
夢分析によればそれは成長期に見る典型的な夢だという、道理でいまは見ないはずだ。
さて、乗った鳥はなんだったかも思い出せない。
空飛ぶ魔法の絨毯であったか、とんびのように悠々と大空をまわる鳥であったか。

石仏を追っていると象や獅子、牛や馬に乗っておられるものに合う。
中には孔雀にのった明王がおわす。
Dsc_3020.jpg

蓮の花ではなくて動物に乗っている意味はよく理解できないでいるけれど、小さい頃見た夢のような感触に通ずるものがあるような気がして面白い。
それにしても孔雀は鳥だけれど空を飛ぶだろうか。
見たことが無いから大空を飛びまわることなどまったく想像できない。
いやいや、見たことが無いからではなくて、それが石だからじゃないか。

                        (飯能市 観音寺)
2007.12.06(08:46)|未分類コメント(0)TOP↑
神社でも寺でも石灯篭は付物である。
その形もさまざまで面白い。
中には倒れてしまったのだろうか、一部分が欠損し、あるいは寄せ集められて不思議と思う形のものまである。
石灯篭は提灯のような照明器具ではない。
神様にお供えする水や餅や酒などとおなじように火をお供えするものである。
お供えした火を護るための屋根や柱で構成されている。
さて、足元灯篭というものがある。
ほとんど路案内のような役割だから低い位置に火袋がある。
真っ暗の中で灯される足元の明かりは頼りになるものだったに違いない。
これもそのひとつだろうか。
飯能の心象寺の中にある水神池の近くに置かれていた。
DSC_2512飯能心象寺

気になったのは刻まれた渦巻き模様である。
どんな意味があるのだろうか。
石灯篭によくある蕨手を象徴したものだろうか。
あるいはとぐろを巻く蛇だろうか。
とてもそうはみえない。

こどものころ
どこかのじいさまからが話す
こんな話を
心ときめかして聞いたものだ

朝日さし夕日かがやく岡の上
水の渦巻くその中に黄金千貫漆千貫

そんな言い伝えを示した目印じゃなかろうか。
今の子はそんな話には乗らないかもしれないが。
2007.12.04(09:03)|未分類コメント(0)TOP↑
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