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海岸寺の百体仏は曽根崎俊吉郎氏が「貞治の石仏」で紹介した。
そのころまでは本堂の裏山にずらりと百体が並んでいたらしい。
名がでると今度は山の中では盗難の畏れありと、目の届く本堂の庭に下したという。
昭和42年ごろという。
その後、井上清司氏が「野ざらしの芸術」(57年)、「甲州海岸寺」(63年)という傑作写真集を出している。
本堂の庭に下してから二十年ばかりの間に苔が生し、なんとも野趣にとんだ石仏となって氏の傑作写真となったわけである。
File5650.jpg

(「野ざらしの芸術」より)

どうやらその頃急に長野県の関係者が中心になって大石仏師守屋貞治の作品を苔むしたままにしておくのはけしからんという機運が生じたのではないか。
各地の貞治仏はこぞって屋根をつけて案内板を立て、苔は洗われてしまった。
海岸寺の貞治仏も仕方なく洗って屋根をつけたようだ。

すると井上氏の撮影は洗われたその前ということになる。

Dsc_2793.jpg

寺の方は石のために悪いのは苔蒸すことと凍ることだといっていたが、石とても二百年か二百五十年で風化する。
貞治仏もそろそろ二百年、何か手を打たなければぼろぼろになってしまうだろう。
苔を落として雨をしのぐのはやむをえないことかもしれない。
しかし、その代償に二度と氏が撮影したような野趣のある写真は撮れないことになる。
今はとてもおなじ石仏とはおもえない様子だ。
氏が撮っておいてくれたことに感謝しなければなるまいか。
あるいはあと半世紀もして大石仏師の称号は忘れ去られて再び苔むすか。

(甲斐 海岸寺)

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2007.11.25(08:41)|貞治仏コメント(0)TOP↑
貞治仏を訪ねるにあたって手始めに求めたガイドブックは信濃路出版の「石仏師守屋貞治」であった。
この本の発行は昭和六十一年である。
掲載の写真と地図を手がかりに上津金の海岸寺に向かう。
そこでまず百体もある貞治仏にどぎもを抜かれ、どれが何やら混乱してしてしまう。
写真を撮りまくったので後からコンタクトを整理して見返してみると本に載っているものと載っていないものがある。
それにしても山門の脇にあるという大きな佉羅陀山地蔵を撮っていない。
彫りの深い印象の強いお地蔵さまであるのに。
さて、次に行くときは詳細に読んで場所を確かめておかなければなるまい。
石の門柱があって本堂に登る石段があるという
その石段はかつての参道で今の車が入れる道は女坂だという

本堂から山門に向かって逆に下ってみることにした。
石段はもう誰も使うことがないのだろう、崩れるにまかされているようだ。
下ってゆくと車道にぶつかり、再び上がるのは息が切れる。
大きな茸が生え栗の実が落ちていた。
しかし、門柱の近くには石仏が見当たらない。
見つからなくても他の石仏が多かったので「またくればいいや」ぐらいに済ませてしまうことになる。
File5651.jpg
(信濃路出版「石仏師守屋貞治」より)
石段下の門柱の更に下に車道から続く石段が大きな樅の木のあるところに続いている
それを降りると二本の樅の木の間にある
通称を樅の木地蔵という

結局、三回目だったか四回目だったか、こんどこそと草に覆われている樅の木の根元に下りてみた。
石段らしきものはあったが藪に覆われている。
そこには数段の石段と石仏の基礎になっていたらしい石が幾つか転がっていた。
ほかには何もない。
ほうほうのていで車道に戻ったものの、ズボンには引っ付き虫がびっしりと付いていた。

実は本堂の庭の西隅に屋根の付いた佉羅陀山地蔵があって、前からひょっとしたらそれがそうかもしれないという期待も持っていた。
その地蔵尊には左足があって、よく見ると接着してある、そのつなぎ目の形は本の写真の折れててる形に似ているようでもある。
右手も接着されている、その傷口も似ている。
ただ、どうしても「これだ」と断定できなかったのは蓮座であった。
その佉羅陀山地蔵は左足で立ち上がろうと一歩踏み出していて蓮の花びらを倒している。
写真の蓮座は倒れていない。
やはり違う。
というわけでずっと後までわからなかった一体である。

Dsc_2812.jpg


実は蓮座が違っているのである。
この佉羅陀山地蔵はもともと山門の脇にあったが、明治の廃仏毀釈で破壊されたとき、首がとれて左足は折れひっくり返されそのまま土に埋もれていたものだという。
守屋貞治という石仏師は曽根崎駿吉郎が「貞治の石仏」で紹介したのが昭和四十四年である。
そのころ頭をつないで山門脇に据えたものらしい。
昭和六十二年ごろまではそのままだったから私の求めた本はその頃の写真である。
丁度その頃、本堂の改修があって佉羅陀山地蔵も本堂の西脇に持ち上げて屋根をつけたという。
このとき欠損していた左足や右手の破片を捜し出して修復したようだ。
よく修復されている。
しかし、わからないのは蓮座である。
写真の踏み込みのない蓮座には何が乗っていたのだろうか。
今もどこかにその蓮座の主がいるに違いない。
光背が見つからなかったのは残念である。

貞治仏だけではない。
寺の方はいっていた。
「敷地をあと50センチ掘り返すと何がでるかわからない」と。
そうだろう、この寺は行基和尚の開山と聞く。
織田信長が武田を攻略したしたときこの海岸寺も燃やされている。
貞治は十年ちかくもここにいて10を越える観音を彫っている。
そのまえにも古い百観音があったらしい形跡も残っている。
何が眠っているかわからない。
2007.11.23(10:04)|貞治仏コメント(0)TOP↑
石仏を訪ねていると石仏はあるのだが寺は火災で焼けて建替えられていることが多い。
そりゃそうだ、石は燃えないけれど木は燃えるからねぇ。
寺は安全なところ、避難場所になっている例がおおいけれど罹災は多い。

諏訪、原村中新田の御射山深叢寺には貞治の作った十三仏があるということで訪ねてみた。
その十三仏はすぐにわかった。
道路に面した寺の山門の脇にあったからである。
山門の脇は寺の中ではない。
それに傷だらけのお姿である。
この寺は元和四年(1618)開基だが明治年間に大火で焼失したという。
そのとき蒙った傷だろうか。
南信十霊場の塔や庚申塔、筆塚、句碑、六地蔵、道祖神などと一緒に纏められてしまっている。
Dsc_2563.jpg

貞治がこの十三仏を彫ったのは文政二年、五十五歳のときである。
十三仏とは死後の供養忌日、すなわち七日ずつ四十九日までの七回と、百日、一年、三年、七年、十三年、三十三年に本地仏を供養するもので柱に十二仏、塔上に延命地蔵菩薩を乗せたもの。
返り花の基台には篆書体で宝楼閣とある。
そんな名前の建物が罹災前にはあったのだろう。
Dsc_2571.jpg

山門からは長い参道が続いている。
その中間に鐘楼がある。
これは焼けなかったものらしく古めかしい。
参道は桜並木になっている。
春にはみごとな景色になるにちがいない。
鐘楼の脇に十三仏に似た塔が立っている。

20071116090102.jpg

上は慮遮那仏らしく柱の正面には弥勒菩薩が彫られている。
唵毎怛○野婆嚩賀(おんばいたれやそわか)とは弥勒菩薩の真言である。
さらに側面には揚柳観音と延命地蔵の彫刻がある。
20071116090141.jpg

基台には報恩塔、その裏側には文化元年四月の銘。
文化元年は貞治の十三仏より十五年も古い。
それなのに少しも痛んでいない。
この塔の写真を撮っていたら枯葉を集めていた土地の方が「そりゃ、ちがうずら 貞治はあっちだぞや」と教えてくれた。
貞治が有名になって写真を撮りに来る人が多いのだそうだ。
こちらの塔は瑕もないし造りもいい。
しかも居場所も十三仏のように雑居じゃなくちゃんと独立している。
それなのに屋根もなければ案内の標識もない。
おなじ石仏なのに差別待遇だなんてことは決していわないのが石仏のいいところなんだなぁ。
もともとこの場所にあったものにちがいない。
だから貞治はこの塔を見ていたに違いない。
貞治仏は十三仏のほかに本堂前の池端に弁天像がある。
その弁天も無残に傷だらけとなっている。
Dsc_2623.jpg

あとから造るということは前のものよりいいものを造ろうとする。
いい出来だったのだろう。
大事に本堂の近くに安置されたものだろう。
焼けた本堂の近くにあったことがあだとなった。
古いほうが助かってあたらしいものが大事にされたせいで痛んでしまった。
願わくはこのふるい方も貞治仏同様に大事にしてほしいものだ。

     (原村中新田 御射山深叢寺)
2007.11.16(09:03)|貞治仏コメント(0)TOP↑
温泉寺の中段墓地に守屋貞治の彫った延命地蔵がある。
造りたてのようにあたらしい。
屋根がつけられていて傍らには貞治作という碑がある。
基台の石には直堂塔と彫られている。
Dsc_2330.jpg

小さなものだし白くてあたらしくみえるから貞治仏かと疑ってしまう。
この寺には貞治仏がほかにもたくさんあるから碑がなければ通り越してしまうだろう。
直堂は禅堂で座禅するとき警策をもって巡香する役である。
天質地朴和尚がその役だった。
文化四年貞治43歳の作というが自ら書いた細工帖には載っていない。
温泉寺は願王和尚の寺だからここで多くの作仏をしたにちがいない。
ここで彫られたものを遠方まで運んだ、言わば拠点の役割を持っていたのではないか。
蓮台の蓮の花びらがめくれ返っている。
だからいままでよく見てきたものよりずっと若い頃の作品である。
Dsc_2328.jpg

じっと見ていると何故かぼやっとしてくるのは何故だろうか。
光がフラットになっているせいか。
先に晩年の名作を見てきたあとだからだろうか。

この地蔵、きっと洗剤をつけてブラシでこすって洗ったから白いんじゃなかろうか。
苔を落とすために薬品を使ったんじゃなかろうか。
私は印を彫りおえたあとブラシで磨いてわずかに磨耗させて印影に古味を出す。
地蔵だってこすられればすこしぼけるんじゃなかろうか。
あくまでも推測だが・・・・
そんなことをいうと文化財保護何某とかに警策で叩かれるかな
        (上諏訪 温泉寺)
2007.11.14(15:46)|貞治仏コメント(0)TOP↑
石仏を彫るためには石材が必要となる。
石など何処にでもあるような気がするけれど、そうおもってそこいらの山々を見渡してみても大きな石材などそうそうあるものではない。
甲斐の上津金で守屋貞治が百体もの石仏を彫ったのは海岸寺の裏山に石材が出たからに違いない。
さもなければ海抜千メートルもあるこんな山の寺に大量の石材を運ぶことなど並大抵ではない。
本堂は山を背負っている。
その裏山に観音堂がある。
今は下の本堂脇に並んでいる貞治の百体仏はもともとこの観音堂の裏にあったものだという。
その跡は幾分平らになっていたが草木が茂り付近には石材らしきものは見当たらない。
ただ、六地蔵灯篭の残欠や石仏の基台のようなものが転がっていた。
貞治はこのあたりに仕事小屋をつくり彫っていたのではなかろうか。

本堂の裏に石組みの枯山水があるという。
石が見えたので入れていただいた。
枯山水とはいうもののずっと手入れされていなくて雑草に覆われている。
石組みもこうなってしまうとあわれだが巨石累々といった感じは残っている。
これらの石材は貞治が百体仏を彫ったものとおなじ裏山から引いてきた石材にちがいない。
安山岩のようだ。
Dsc_2758.jpg

一番大きな座禅石はひっくり返っている。
案内してくれた寺の方はひょうきんな方で「自然がそうしたいのだから仕方が無い、戻すことは考えない」と。
「雑草を刈ったり庭を掃除できるように鎌や箒を用意してあるけれどやってくれる人などいない」とも。
私見だが「山梨県甲斐国北巨摩郡津金村大字上津金 津金山海岸寺全景」にはこの庭は載っていないから造られたのは割りとあたらしいのではなかろうか、あるいは石仏を作ったあまりの石を利用したとも考えられる。

(甲斐海岸寺枯山水)
2007.11.13(13:56)|貞治仏コメント(0)TOP↑
温泉寺の本堂前におおきな貞治仏がある。
文政六年、貞治五十九歳の傑作延命地蔵大菩薩である。
基段には三界萬霊、側面に文政六癸未五月初二日 奉納 千野忠とある。
千野忠は諏訪藩の家老であった。
20071111084717.jpg

裏を鏡にした屋根がつけられ金属の錫杖がつけられているから時代が感じられない。
とはいっても、もっとも貞治の特徴を備えている。
貞治は五十代で様式が決まりこの像で頂点を迎えた。
もっとも美しい形を集約している。
仏像の理想的な姿を捉えたといえる。
このあとは硬さがとれてやわらかさ優しさがましてくる。

明治になって高島城の能舞台八詠楼を移築した本堂と白壁の経蔵の間にあって写真はうまく撮れない。
それに高さもある。

この隣に簡単な地蔵堂があっていろいろな仏像が収めてある。
そのなかに貞治仏が一体復元されて混じっている。
お顔がなかったものを復元したものらしい。
Dsc_2380-.jpg

その復元に使ったモデルは隣の延命地蔵大菩薩とおもえる。
並べてみると瓜二つだから。

おそらく実寸をとり縮尺をあわせて近年の技術を取り入れて作成したものとおもう。
それにしても、そっくりにあわせたつもりだろうがどうしてもしっくりあわない。
型をとって作った擬歯があわないようなものだ。
Dsc_2352.jpg

おもうに、大きさの違いのせいではなかろうか。
おおきな仏像は見上げるもの、そのことが判って彫っているのだ。
それを小さな仏像に縮小してもあわないものなのだ。
蓮座が二重なのもおかしい。

        (上諏訪温泉寺)
2007.11.11(08:50)|貞治仏コメント(0)TOP↑
上諏訪の温泉寺の裏山の一角に雲水墓地がある。
当時の温泉寺には雲水数十余名を減じたことがないという記録がある。
そこにこの延命地蔵が立っている。
守屋貞治の傑作といわれているが自ら記したという「石仏菩薩細工」には何故か載っていない。
Dsc_2312.jpg

銅のような色をしているのはあとで磨かれたものだろうか。
或いは屋根の銅が流れたものだろうか。
貞治仏に立像は多くないが他の仏像と違い憂いのある人間的な顔立ちをしている。
仏さまというよりも雲水を写したものにちがいない。
曹谷という雲水僧の墓だという。
あるいはここで命つきた雲水達の総供養塔かもしれない。
基台には蔵六首座と書かれている。
願王和尚の筆跡だろう達筆である。
禅宗では夏冬の制中に際し住職が首座(しゅそ)を任命する。
首座は六頭首の第一座であり、住職に代わって他の雲水たちと問答する役割である。
曹谷素省と言う雲水は三十代で願王の弟子となって修行し温泉寺の監守(かんす)となった。
いわば願王和尚の後継者である。
監守は寺のすべてを取り仕切る重要な役である。
その監守が願王の跡もつがずなくなってしまった。
願王は悲しみ貞治に延命地蔵を彫らせ供養したものとおもう。
曹谷はそこで蔵六首座という名前を貰う。
「石仏師守屋貞治」信濃路出版には蔵六は曹谷の幼名と書いてあるが一旦僧籍に身を投じたものを俗名で呼ぶことはしない。
蔵六とは亀の意味である。
頭、尻尾、手足四本を甲羅の中に隠すことから六根を清浄に納めた徳の高い僧を称える名前である。
六根とは眼・耳・鼻・舌・身・意で色・声・香・味・触・法を現す。
願王和尚の信頼はそれほど厚かったのだ。
                                (上諏訪 温泉寺)
2007.11.10(07:51)|貞治仏コメント(0)TOP↑
わたしは貞治仏に会うときはできるだけ頭を撫でやることにしている。
貞治もひたすらビシャンで打ち、溜まったホコリを幾度となくなでて拭ったに違いないからだ。
手のひらでなでながら形を確かめるのである。
なでていると貞治の造っている気持ちが伝わってくるような気がするからである。
上諏訪の温泉寺で西国三十三観音を彫り始めたのは文政十一年ごろとすれば貞治は一年ぐらいあとで師であった願王和尚を喪っている。
悲しみのなかで傑作願王地蔵を彫り、他の大きな地蔵尊など七体も彫り、並行して三十三観音も手がけていた。
石仏一体彫り上げるのにどのくらいかかるのか、他の例では二ヶ月ぐらいかけている。
短期間にこれだけ多くを彫るということは並大抵のことではない。
20071108082001.jpg

私の同級生に石屋の息子がいた。
学校の行きかえりその家の前を通るのでよく仕事を見ていたものだ。
広い仕事場のなかで親父は強度の近眼で石にはすに向かって鑿を打っていた。
一点ばかり見ているから近視になるのだろうか。
石の粉が目に飛ぶから目がわるいのだろうか。
石屋は眼鏡が多いような気がする。

貞治も願王和尚をなくして二年ほどして目が悪くなる。
どんな病気であったかわからないがほとんどみえない状態であったらしい。
三十三観音は二十三までいってもはや続けることが出来なくなってしまう。
弟子達の協力のもと、天保二年二月には開眼供養となったもののさぞ残念なことであったとおもう。

いまこの三十三体をつらつらとみる。
覆屋におさまっているから撫でてやることはかなわないが、どれも美しい。
みごとである。
最晩年の石工の頂点を見ているような気がする。
いったいどれが二十三番目でそのあとの弟子達の手がけたものはどれだろうかなどとおもいながら見ていても何もいわない。
ただだまって微笑んでおられる。
ただ真ん中の覆屋の中ほどではたと足が止まる。
光背にくぎづけになる。
それは鑿の跡が残っているからである。
石工は鑿で荒く彫ったあと、ビシャンという突起のついた金槌で叩いてならす。
五列25の突起のものは五枚ビシャン、八列は八枚ビシャン、十列のものは百ビシャンとう。
だんだんとならしてそのあとさらに平刃のタタキという道具で叩いて平らにする。
Dsc_2410.jpg

この光背はビシャンで叩ききれていないのだ。
鑿あとがなまなましく残っているのだ。
裳の一部もタタキがかかっていない。
もう何処までが貞治でどれが弟子の彫ったものかなどということはどうでもいい。
この残された鑿あとから貞治の叩けなかった無念さをおもだけでいい。
どれも貞治仏なのである。
          (上諏訪温泉寺 西国三十三観音)

2007.11.08(08:24)|貞治仏コメント(0)TOP↑
File5649.jpg

高頭町誌刊行会の発行する「高遠の石仏」を役場で入手できる。(1500円)
その表紙は大聖不動明王である。
あとがきによると発行は昭和五十年だが平成七年に新装している。
そのさい、版はなくなり写真も撮りなおしたとあるから平成七年ごろの写真であろう。
比べてみると足の下部がひび割れているが何とかくっついている。
それが今日では完全にはがれ落ちている。
わずか十二年である。
石とてもはかないものなのである。
(上 高遠の石仏表紙 下 平成19年10月22日)
2007.11.07(07:10)|貞治仏コメント(0)TOP↑
独立峰の富士山を除けば日本で一番高い山は南アルプスの北岳・間ノ岳である。
その南アルプスの西斜面に降る雨は三峰川となって長谷村を北上し高遠で守屋山から南下する藤沢川と合流して西に大きく曲がり大天竜にそそぐ。
高遠の勝間村は絶えず洪水の犠牲に晒されていた。
防ぎようのない天災は神に願うしか方法はない。
勝間村の人々は守屋貞治に波切り不動を彫らせた。
貞治は同郷の人々の切実な願いを受け止めて精魂込めて大聖不動明王を彫り上げたのである。
その不動さまは三峰川の勝間大橋のがけの上に安置し何時でも雨の按配を見張っていたに違いない。
Dsc_2004.jpg

仏像は頭部を大きく作る。
それは見上げたとき頭が小さくみえるのを防ぐ技法である。
貞治はそれを知っていたとおもう。
磨かれた青石の頭部は大きく目鼻立ちもはっきりさせている。
炎の光背は前傾して見上げるものを圧倒させる。
近年、三峰川にはダムができ美和湖、高遠湖となっている。
そのとき大聖不動明王は邪魔となって高遠町郷土館に移されたらしい。
さらにその後、勝間公民館の庭に移されたという。
そのころ村に頭を病む婦人が多く出て不幸がかさなり、誰となく大聖不動明王を粗末にしているばちだとうわさが立った。
そんなわけで今は前の勝間大橋があった常盤橋の西袂の岩盤に据えてある。
橋の上から見ると目の高さなので大傑作のはずだがすこしあたまでっかちにみえてしまう。
惜しいことだ。
守屋貞治の大傑作なのだから
もう少し高い場所に移して今でも三峰の川を睥睨してもらいたいものだ。

(高遠勝間 常盤橋)
2007.11.06(08:04)|貞治仏コメント(0)TOP↑
照光寺は岡谷市本町にある。
高校時代三年通った道だから、それにその頃はろくに勉強もせずよく道草したものだから何辺かは寄ったこともあるとおもうのだが一向に思い出さない。
Dsc_2294.jpg

照光寺の奥まったところに薬師堂があって案内板が立ててある。
棟梁 藤森広八良、姓が同じだと何故か親戚のような気がして懐かしい。

薬師堂(お観音様)
間口奥行 共に二間半
棟梁 藤森広八良
建立 文政九年七月
本尊 白鳳三年銘秘仏薬師如来
ほかに 千手観音・日光月光菩薩・薬師十二神将

しかし、ここに来た目的は守屋貞治仏を見ることである。

貞治仏はお堂の左側の軒下に幾つかの石塔や石仏と並んでいた。
最初に貞治仏を世に紹介した曽根原駿吉郎氏は、貞治の残した石仏菩薩細工帖に「佉羅陀山地蔵大菩薩 同郡岡谷 林氏」としか書かれていなくて寺の名前はわからなかったものを、たまたま岡谷の同名の友人の菩提寺が照光寺であることから当たりをつけて発見したのだという。
おなじ姓もどこかでつながりがあるから馬鹿にはできないものだ。
Dsc_2274.jpg

この貞治仏には謂れがある。
願主の林氏というのは照光寺の門前で代々通い問屋を営んでいた林七郎右衛門という人であった。
大工の仕事場というものは面白いものである。
真っ白な鉋屑や木っ端は子供の格好の遊び道具になる。
私も子供の頃「小僧あぶねぇぞ」なんて言われながらも潜りこんではあそんだものだ。
林七郎右衛門の跡取り息子もそんなふうに遊んでいたらしい。
丁度棟上の日、梁が落ちてその子がなくなった。
とんでもないことである。
降ってわいた災難に落胆した林七郎右衛門は当時名を馳せていた貞治に地蔵を作ってもらい供養することを思いついた。
Dsc_2286.jpg

そういわれてみれば、このお地蔵さん、子供らしい顔をしているじゃないか。
鉋屑のなかで無邪気に遊んでいた男の子のようじゃないか。
貞治という人は何時もおなじ仏様の顔を彫ってはいない。
時に応じた人間の顔を写している。

      (岡谷市照光寺)
2007.11.05(10:14)|貞治仏コメント(0)TOP↑
大きな石には神が宿る。
何処の地にもそんな神の石の伝承があるものだ。
諏訪物忌令に七つ石の事が記されている。
諏訪神社の神がおりたつ磐座である。
その一つがふるさとの高部にある小袋石であることから村の者は誰でも知っているが、もう知っている他の諏訪人は少なくなっているようだ。
その七つ石というのは
御座石(茅野市御座石神社)
御沓石(諏訪神社上社)
硯石(諏訪神社上社)
甲石(諏訪神社上社)
小袋石(茅野市高部)
児玉石(諏訪市湯乃脇)
亀石(茅野市宮川)
の七つである。

その中の児玉石というのは児玉石神社のご神体である。
20071103132100.jpg

この神社の名前は室町時代の古文書に出てくるくらいだからずっと古くからあったものだろう。
いくたび神が降り立ったものか、今ではひっそりとしている。
物忌令には海端にありと書かれているから大昔はこのあたり諏訪湖の水際であったのだろう。
諏訪藩主の手元にあったという「全郡一村限村地図」に記されている石の名前を小口惣太郎という人が数えてかつて「郷土」という雑誌で発表した。
それによると九十一の石の名前が出てくる。
諏訪郡図の制作年は不明だが享保寛保の頃のものという。
おもうに動かし難い石は目印として必要欠くべからざるものであった。
地図など手書きでいいかげんな時代である。
山や川、村や谷では地点を断定できない。
そこへ行くと巨石は何時でも不変なのである。

児玉石は六個の巨石が寄り添っている。
その中の一番大きな石に拳ほどの穴があいている。
その穴の中には水が溜まっていてどんな旱魃でも乾くことがないと言い伝えられている。
そんな馬鹿なとおもうけれど、今日も穴の中には水が溜まっていた。
この水で疣を洗えば直るのだという。
Dsc_2419.jpg

これらの巨石の上に幾つかのくぼみがある。
明らかに叩いて人工的にへこませたものだ。
付近の小石を借りてきて疣をこすればなおるけれど、その際一番おおきな穴にいちどなげこんでから借りてこないとなおらないという伝えもある。
このような疣石の伝承は各地にのこっている。
道祖神や庚申、神社の縁石などをくぼませたものに溜まった水で疣を直すという伝承も多い。
疣取りというものが、昔からそれほどおうぎょうなものであったものか、子供の遊びの範疇であったものかそれはわからない。
ただ私は、石を叩いてへこませたくぼみを見ていると疣とりなどではなくてもっと以前に生殖をつかさどる行事があったのでないかと想像するのである。
巨石の名前が小袋石であったり児玉石というのも生殖にかかわる信仰の名残であるような気がするのだ。
Dsc_2415.jpg

      (諏訪市湯之脇 児玉石神社)

2007.11.03(13:25)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
20071101073713.jpg


何しろ重くておもくて
音羽の衆は見栄っ張りだから
こんなでっかい塔をこしらへて
腕が折れてしもうた

20071101073653.jpg


     (文京区音羽 護国寺)
2007.11.01(07:42)|石になった猿たちコメント(0)TOP↑
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Author:牛鳴

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