ホームページの紹介
http://www5.plala.or.jp/gyumei/
写真や絵手紙など牛鳴HPの玄関先です「牛鳴さんちのたからもん」

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--(--:--)|スポンサー広告||TOP↑
東高遠の桂泉院には三体の貞治仏があることになっている。
西高遠の建福寺には四十六体の貞治仏がある。
両寺とも近いのでいっぺんに撮影しようとするとあわただしい。
先般撮影しあとで桂泉院の分のコンタクトをみたらどうしても貞治仏が四体ある。
あわただしかったので銘を控えなかったのを悔やんだ。
20071030075912.jpg

それにしてもこれだけ見事な貞治仏が資料に載っていないのはなぜだろうか。
他の三体はどの資料にも載っているのに。

今回は真っ先に台座の銘を控えた。

要戒和尚全身入塔墳
嘉永元戊申亗

台座金剛
宝珠放光
抜苦与楽
大悲願王

嘉永元年は1848年、実は守屋貞治の死後天保三年から十六年も後の時代である。
すると貞治仏ではない。
しかし、どう見てもこれは貞治仏である。
どれだけまねしようとしてもこれほどそっくりに作ることは困難だ。
現代のように機械があれば、或いは現物を隣に据えてゲージで測りながら彫ればおなじものが出来るかもしれないが江戸時代とてもそんな芸当は出来ないだろう。

貞治には何人かの弟子がいたし、中でも渋谷籐兵衛は一番弟子として大成している。
貞治の技術を受け継いだ籐兵衛の作品だろうか。
籐兵衛は嘉永元年といえば六十五歳である。
嘉永二年には建福寺山門に大きな楊柳観音を建立している。
その楊柳観音を見ても顔立ちは貞治とはことなる。
ましてこの像とは異なるようだ。
するとこれはなんだろうか。
要戒和尚とはどんな人だろうか。
残念ながら今のわたしにはわからない。
しかし、この台座の草書、願王和尚に似ているし、文末に願王とあるのも判じ物のようだ。
要戒和尚の墓を作るにあたり、残された貞治仏を使ったのではなかろうか。
この顔をみているとそうとしか思えないのである。
20071030080025.jpg

(東高遠 桂泉寺)
スポンサーサイト
2007.10.30(08:01)|貞治仏コメント(0)TOP↑
新宿御苑の前に太宗寺という寺がある。
その寺に塩地蔵というのがあって大量の塩にまみれている。
20071027085509.jpg

いくら願掛けといったって貴重な塩をこんなに沢山そなえるとは・・・・
始まった由来はわからないがもっと少なかったのではなかろうか。
物があふれている今の時代にそうしたものだろう、願掛けも桁が外れて大きかろうから。

この寺は高遠の譜代大名内藤家の墓所があって、高遠の石工守屋貞治の残した細工の記録に内藤新宿の太宗寺と記されていることから、この塩かけ地蔵が守屋貞治作ではないかと見るむきもある。
それは探しても他にないからであって「石師仏守屋貞治」の中で山田誠治氏が(塩地蔵が貞治仏か)と
なげかけたからであろう。
一見したとき頭の上に髪があるからこりゃ地蔵じゃなくて観音だとおもってしまった。
よく見ると髪ではなくて頭巾のようなものを被せた上から塩を盛ったので固まって石のようになったものらしい。
少し傾いているから。
やはり地蔵らしい、これが貞治仏だろうか。
守屋貞治が天保二年に残した「石仏菩薩細工」の八十一番目に、「一、佉羅陀山地蔵大菩薩 江戸内藤新宿 太宗寺」とある。
筆もしっかりしているし書かれた内容に間違いはあるまい。
作成年代順に書いてあるかわからないがほぼそうであるとすると六十前後のもっとも充実した時期にあたる。
File5637.jpg

佉羅陀山地蔵大菩薩の他の例は細工帖で大菩薩といってるように大作である。
光背のあるものと無いものがあるが、なければその頃とおもわれる甲斐見性寺の佉羅陀山地蔵大菩薩、こんな像が想像できるのではないか。
佉羅陀山地蔵大菩薩は右手を頬にあてた思惟の形で、足はまさに立ち上がらんと片膝たてている。

塩地蔵は目鼻がとけてしまってもうない。
だから貞治の顔であるかは判断のしようが無い。
顔の右側面に耳のような痕跡がかろうじて残っている。
いや耳ではなくて、頬に当てていた手の残骸であり、腕は折れたのだとすれば思惟のかたちともいえなくはないがちょっと無理がある。
そうだとしても頭の形が貞治仏に比べ低すぎる。
像の大きさも合わない。
片膝をたてている関係上、蓮台が一緒なら小さすぎるし、蓮台を失ったものとすれば左足の部分のすわりが悪いはずだ。
20071027085743.jpg

じゃ、太宗寺の貞治仏はどこにあるのだ、といわれてもしかたがない。
ずっと広かった太宗寺の敷地は震災や戦災も区画整理も経てきた、なくなったって不思議じゃない時代を経ている。
知っているのはものいわぬ仏ばかりである。
広大だった内藤家の墓だって今は三基しかない。
墓地の無縁仏は一箇所に集められて折り重なっている。
知ったかぶりをすると落語のちりとてちんならぬ物笑いの種になりかねないが、これは貞治仏ではない。

「貞治仏がどうして塩をそなえられたかって、そりゃ貞治が藤沢郷の塩供の人だからさ・・・」
ひょっとしたらそんな冗談から立った噂かもしれないぞ。

内藤家といえば今の新宿御苑に屋敷を構えていた江戸の譜代大名である。
元禄のころからずっと高遠城主を勤めている。
そんな菩提寺から注文があったとすれば並のものはつくれまい。
もし弟子数名を連れて出向いたとすれば、伊勢の宝珠院地蔵建立のさいの旅日記や身延七面山への旅日記をつけるくらいの貞治である。
江戸のみやげ話ぐらい残っていても不思議じゃないのだがねぇ。
ただねぇ、文化文政の高遠藩、財政は火の車だったらしいから・・・・。
2007.10.27(08:59)|貞治仏コメント(0)TOP↑
高遠の建福寺には守屋貞治の傑作石仏が多い。
高名な西国三十三観音が三棟の覆屋におさまっている。
その西脇に一体の聖観音がある。
傍らには守屋貞治作聖観音という案内板も建っている。
だがどう見ても変である。
そりゃそうだ、顔が後からつけられたものだからだ。
どんなに似せて作っても本物にはおよばないものだ。
蓮弁の形や身体は貞治仏らしく、いや実際に貞治仏かもしれない。
しかし、顔以外が本物であってもこうなるともはや貞治仏と呼べるだろうか。
顔がなければ貞治仏だが、顔をつけたばっかりに貞治仏ではなくなるのである。
羊頭狗肉・・・
いやいや、その反対か。
Dsc_1985.jpg

2007.10.26(09:02)|貞治仏コメント(0)TOP↑
富士見の御射山神戸にある八幡神社には双体像の左右に石の祠がある。
双体像は諏訪ではお馴染みのものだ。
20071025075533.jpg

由布を持ち合って寄り添う二人はこの地の民であるように見える。
養蚕の盛んだった諏訪の婚礼風景か。
でも何か変だ。
Dsc_0844-.jpg

実はこの双体像の右の男の左手がしていることは・・・・
左の女の右手が握るものは由布ではなくて・・・・
ま、道祖神の多くはみんなこんな姿なんですから。
変な道祖神!とおもっていたら石祠の中を見るとそこにも双体がおさまっている。
Dsc_0845-.jpg

神官のようだが夫婦の姿であるからこれも道祖神なのだろうか。
あるいはこちらが由緒正しき道祖神だろうか。
その神官の被り物が朱に塗られている。
覗き込むとその鮮やかさにハッとさせられる。
祠の前面には三宝に乗った幣の納まった瓶子が彫られている。
その三宝にも朱が認められる。
こちらは外だから色が早く褪せてしまったのか。
それに比べるとなおさら被り物の朱に驚くのだ。
中の神官像はいま彫りあがったばかりのように鑿跡がのこっている。
大事な神様にちがいない。

(富士見町御射山神戸 八幡神社)

2007.10.25(08:03)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
信州から甲州へ越えると小淵沢である。
その小淵沢の駅近くに大宮神社があって裏手に二基の大きな石祠がある。
その大きさも造りも並外れている。
20071023083037.jpg

片方は獅子山に乗っていて、もうひとつは四脚几案にのっている。
いずれも詳細な彫刻を施した、見上げるような大きさの立派なものである。
道祖神というと何が彫られているのかわからないほど風化しているか、みすぼらしい祠と相場はきまっている。
これが道祖神とはとても思えない。

20071023083131.jpg

とはいうものの、石祠の中を覗くと甲州でよく見かけた石棒が納まっている。
なんともなまめかしく朱に塗られたカーテンの中に納まっている。
それを見ると「あぁ、やっぱり甲斐の道祖神だ」と納得するのである。

(小淵沢大宮神社裏の道祖神)
2007.10.23(08:32)|道端の神 道祖神庚申コメント(0)TOP↑
何としよう、あわれにもお顔のかわりに丸石をいただいている。
座は象だろうか、鼻がおれているらしく象にみえる。
すると乗っているのは普賢菩薩さまか、ならば獅子にのった文殊菩薩さまもお釈迦様もいるかもしれない。
文殊菩薩は兄、普賢菩薩は弟としてお釈迦さまの両脇にいる。
20071020071203.jpg

横向きで乗っているのはめずらしい。
それはさがしても無かったが地蔵や如意輪がたくさんあった。
この寺にある石仏のほとんどは首がない。
首がなくても、かわりに丸石が乗っていても、石仏は何も言わない。
ただ、見るものが言うだけである。
「蜻蛉よ、聴いてくれ」と。
廃仏毀釈のとき、仏像を壊せといっても村人はだれも手をださなかったという。
当局の看視は仕方が無いから自ら金槌を振るった。
なにせ数がおおいから一撃で目的を達するには首を狙うのだ。
この象は鼻が長かったゆえに一緒に折られてしまったらしい。
なんともいいようのないむなしさを感ずる。

(須玉東向 信光寺)
2007.10.20(07:13)|石仏賛歌コメント(0)TOP↑
桧原村といえば東京の一番山奥である。
山奥といえども東京都でもある。
その千足という場所に御霊桧原神社がある。
そこに庚申塔が三基ある。
自然石の文字塔と青面金剛像二基である。
その一つに二猿がいる。
なんとその猿、ふたりとも手で目を塞いでいる。
こりゃ見ざるみざるじゃないか。

>20071018085622.jpg


庚申の信仰はこんな山奥までたどりついている。
テレビもラジオも無い時代に短期間に伝播してゆくのは人の知りたがりや、まねしたがりの賜物らしい。
見ざるみざるといいながら、どっこいすっかり見ているのである。

20071018084731.jpg

      (桧原村千足 桧原神社)
2007.10.18(08:54)|石になった猿たちコメント(0)TOP↑
上諏訪の温泉寺の願王禅師がたおれたのは文政十二年二月十九日であった。
高遠の建福寺に出向き受戒会を行っている最中でのこと持病の癪の発作が起こった。
癪とはどんな病気であったのだろうか。
胸、腹の急激な痛みというが、持病というからにはしばしばその発作があったのかもしれない。
痛みのうえに熱が高く悪寒がするというから腎臓結石か癌であったのかもしれない。
高遠の医師清水隆閏が診察したが回復せず、翌二十日七つ(午前四時)高遠中の医師に相談し投薬したが、ついに四つ(朝十時)に遷化された。
旅先で亡くなった場合は直ちに送り返すのが当時のならいらしい。
八つ(午後二時)には山門に町中の人が出てお見送りし、高遠藩の家老は杖突峠まで付き添った。
杖突峠には諏訪藩の家老千野氏が出迎え上諏訪の温泉寺まで届けたと記録されている。
葬儀は二十四日に執り行われたので、命日は二十四日となっている。
今の安国寺へ下る道は無かったから、杖突峠からは私のふるさと、高部を通って中洲、田辺をへて上諏訪へ下ったのだろう。
このとき何歳だったのか記録はない。
七十六歳の書がのこっているから、それ以降である。
守屋貞治は翌文政十三年、ゆかりの建福寺に願王地蔵をつくっている。
20071016135030.jpg

良質の青石で磨かれた像は貞治渾身の傑作である。
貞治が願王禅師とであったのが何時かわからないが三十歳ぐらいといわれている。
そのころ願王禅師は温泉寺の副住職であったが既に高名な禅師であった。
石仏師としては讃や碑文を書いてもらう必要上、出会いの機会は多かったのではなかろうか。
貞治もまたこの頃から石仏師としての才能を台頭させた。
以来ずっと師弟の関係であった。
この石仏は若い願王禅師の姿を写しているだろうか。
地蔵を深く信仰していたという禅師をそのまま地蔵尊として石の中から導きだした貞治である。
願王禅師の姿が写されていて当然であろう。
法の上の兄弟である絵師実門の描いた肖像からうかがうとすこぶる似ている。


願王禅師覚え
武州埼玉郡岩村 源兵衛の子
芝阜の長徳寺で修行に入り、井山宝福寺にて印記を受く
文化元年温泉寺住職として晋山
北は奥州松島瑞巌寺から南は岡山曹源寺まで巡錫
文政四年京都妙心寺で受戒説教時九条家から銅の地蔵を下賜
師諱は全提 初めの名は禅曙 字名は願王
寛政六年六月十七日城主に招かれ副住職を命ぜられる
地蔵菩薩を崇敬すること深く字を願王と称するようになったとも、願玉といったが署名するうちに点が取れ願王となったたともいわれる
能書家であり妙心寺派の末寺に願王の書が多く残る
三十年間に使った足袋は一足のみ、法座に上がるとき以外は素足だったという(禅宗の空足といった)

2007.10.16(13:51)|貞治仏コメント(0)TOP↑
韮崎から清里へ通ずる路の穴山あたりに柳原神社がある。
ここには古い狛犬や馬頭観音を集めたとおもわれる石仏の集合があって数回訪れている。
そのときは気がつかなかったけれど神社の建物の蔭に幾つかの石祠があった。
丸石が無造作に転がっている。

Dsc_1668.jpg


Dsc_1675.jpg

道路の拡張などで集められたものか、似たような石祠で中には唐風の飾りのものもある。
石祠の中は空っぽだから神様の名前もわからない。
これに気がついたのは石祠の屋根に大きな凹みがあったからである。
これほどの凹みにするには女の子のままごと遊びで草の餅をついたという程度の理由では済まされまい。
割れてしまったのもある。
よっぽど熱を入れて叩いたに違いない。
まさかそのときの石ではあるまいが、これで叩いたといわんばかりに小石が入れてあった。
こんな石の凹みは諏訪から甲州、八王子あたりまで分布している。
この近く、塩川に信光寺がある。
なかなか景色のいいところだが、寺の白塀の外に不思議な形の石があった。
なんだろう。
灯篭の残骸だろうか。
この寺には首のない石仏がたくさんある。
明治の廃仏毀釈で壊されたものだろう。
この石もそんなものの一つかもしれない。
そうおもいながら近づいてみるとここにも凹みがあった。

20071015171454.jpg


Dsc_1862.jpg

その凹みは台座のような部分にも支柱のような部分にもある。
灯篭の残骸というよりも、むしろ凹みを作るための特別にあつらえた石のように見える。
こんなくぼみをつくるという行事か祭りかが忽然と姿を消すというのも不思議なことだ。
石の凹みだけが残ってだれもその理由をしらない。
非常に野蛮な性的な行事だったものが明治の蛮行禁止令によって消えたもののように思えてならないのだ。
ほかに理由が思いつかない。

2007.10.15(17:16)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
普通庚申の下にいる三猿は目、口、耳を押さえている。
この三猿はそのおさえるものが手ではなく扇子というのが面白い。
さすがに耳は手でおさえているが後は開いた扇子と閉じた扇子である。
こんな青梅の山奥にハイカラな猿がいたもんだ。

Dsc_1631.jpg

文政九年とあるから江戸も進んだ時代、庚申の猿もハイカラになってさまになっている。
20071005073031.jpg


本尊の庚申様だってどうにいったもんだ。
このあたり石灰岩が採れる。
今はセメントの材料だが当時は焼いて肥料にした。
裕福な土地であったのだろう。
お堂に登る石段も石灰岩であった。
一輪の曼珠沙華が良く似合うひなびた山の寺である。

   (青梅市成木 慈眼院)

2007.10.05(07:32)|石になった猿たちコメント(0)TOP↑
プロフィール

牛鳴

Author:牛鳴

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブロとも申請フォーム
ブログ内検索
RSSフィード
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。