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写真や絵手紙など牛鳴HPの玄関先です「牛鳴さんちのたからもん」

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私は孫悟空の話が好きだ。
好きといっても子供の頃漫画で読んだだけだから詳しいわけではない。
話が痛快極まりないからではない。
一寸間抜けな悟空のキャラクターが好きなわけでもない。
石から生まれた孫悟空は悪さばかりするので頭に緊箍圏(きんこけん)という金の環を嵌められてしまう。
三蔵法師が緊箍呪を唱えるとこれが縮まって頭を締め上げるのだ。
どんなに孫悟空が暴れようが強がりを言おうがひとたび緊箍呪を唱えるとキリキリと頭を痛める。
実は私は物心ついたころから頭痛持ちでときどき頭が締め付けられるように痛む。
頭痛薬というものをいろいろ呑んでみたがいっこうに効かないのだ。
その頭痛は布団を被って一晩寝れば治るのだが、発作が始まると薬では治らないことが判っているから諦めるしかない。
孫悟空のように悪さをしたわけじゃない(多分)から私の場合は観音様のせいじゃなかろうが、孫悟空を他人とは思えないのだ。
きりきりと痛むその苦しみが分かるのだ。
同病相哀れむのたとえ、そんなわけで好きなだけである。
孫悟空は全身に金色の毛が生えているというから並みの猿とは違う。
石猿でも山王さまや浅間神社にいる猿とはちょっと違うとはおもうけれど、同類の石猿は気になるわけである。

Dsc_1420.jpg

(下練馬 浅間神社)
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2007.07.31(20:07)|石になった猿たちコメント(0)TOP↑
今年は梅雨が長い。
それなのに暑さだけはとっくに真夏である。
ちょっとあるくと熱気と湿気でくらくらしてくる。
石だけはからっと乾いていて気持ちがいい。
触るとひんやりするかもしれないと、触ってみたらなんとゆだったように熱い。

お地蔵さんも庚申塔も狛犬もずっと見てあるくと時代によって違いがある。
いつの時代もちょっと前のものは「これ、ださい!」「これ、ふるーい!」なんていわれたのだろうか。

目白の南蔵院に幾つもの仏像や庚申塔にまじってこの馬頭観音もあった。
馬頭観音の文字は隷書体である。
これも流行のものか。
馬頭観音は馬の頭を頂いている。
なるほど、これも文字本尊の上に馬頭をいただいている。
八手三面で憤怒相のいかめしい姿よりは斬新なニュースタイルにみえる。
なんたって馬の彫がいい。
江戸っ子気質が感じられるじゃないか。
DSC_145.jpg

2007.07.26(10:57)|石仏賛歌コメント(0)TOP↑
庚申塔には猿が付きもののようにいる。
菱形の三塞猿が多いが中には変わった猿もいる。
面白い猿がいる。
可愛い猿がいる。
清水長輝氏は著作の中で猿の形体は絵画的に面白くても学術的に意味のあるものではないといっているが、庚申好きの多くの方はこれらの猿に癒されているに違いない。
庚申像の経規や縁起はやかましいことが決まっている。
庚申塔は色んなものを彫り付けなければならない。
それにいちいち決まりを指摘されたんじや、石屋は閉口したに違いない。
ところが猿については何の制約もない。
石工が腕をふるうところは猿しかなかったともいえる。
20070721084102.jpg

この子猿たちを見ていると石工の面目躍如を感ずるのである。
この子猿がいなかったら私は庚申塔の写真なんか撮らなかったとおもう。

 あぁ、子猿なのに皺がある・・・・

             (目白 金乗院)

2007.07.21(08:42)|石になった猿たちコメント(0)TOP↑
庚申さまに踏まれる鬼はどんなわるさをしたものか、年がら年中踏まれて重かろうに。
いったい鬼というものは何時まで踏みつけられているものか、未来永劫に踏まれているものか。
20070720093753.jpg

この鬼はついに踏ん張りとおした。
背中の上の青面金剛はとっくに砂になってもう足しか残っていない。
下の三猿は剥がれ落ちてあとかたもない。
それなのに、この鬼はついにふんばりとおした。
少し軽くなったのを感じたか、満足しきった顔をしてるじゃないか。

なんとかこのまま残してやりたいねぇ

       (目白 金乗院)

昭和三十三年発行の大護八郎「庚申塔」にはショケラを持つ青面金剛も、鶏も、愛嬌のある猿もちゃんと写っている。
わずか五十年ばかりの間にぼろぼろになってしまったといえる。
酸性雨だろうか、排気ガスだろうか、吾らが寿命を縮めたのは間違いないし、吾らもまた自らの寿命を縮めている。
2007.07.20(09:40)|未分類コメント(0)TOP↑
四谷の須賀神社に寄ったら古い狛犬がいた。
狭い場所にあって後ろの赤く塗られた稲荷社の柱と相性がわるいのでぐるぐる回りながら写真を撮っているとおまいりにこられた方が来たので手を休めると、「やっぱりこの狛犬はいい狛犬ですか」と聞いてきた。
「いい狛犬ですか」といわれてどう返答したらいいか詰まってしまった。
狛犬も随分見てきたけれどいい狛犬かどか考えたことなどなかったからである。
「私らは毎日ただ横目で見ているだけだけど、やっぱりいい狛犬なんでしょうねぇ」と畳み込まれて、しかたがないので「震災にも戦争にも耐えてきたんでしようからねぇ」というと、「そう、みんな焼けてしまつて草も木もなくなってしまって・・・・」
「ここの人は偉いんですよ、なにも亡くなってしまったところに木を植えて、一代でここまで立派な神社に戻したんですから」と売り込んでくる。
「みなさんのように毎日お参りしてくれる人がいるからじゃないですか」と言いかけたが、それはこらえた。
DSC_14.jpg

この狛犬は享保十三年に造られた。
大きな目玉である。
戦火を逃れてきたせいか、都会そだちのせいか苔などまったく生えていない。
てかてかと光っている。
「てやでぇ、こちとら江戸っ子でぇ」といってるようじゃないか。
やっぱりいい狛犬なんだろうとおもう。
あのとき「いい狛犬です」といってやればよかったとおもっている。
そう答えることを期待していたんじゃなかろうか。
       (新宿区四谷須賀町 須賀神社)
2007.07.18(12:01)|狛犬さん吠える唸るコメント(0)TOP↑
昭和五十五年は庚申の縁年であったことから伊那路286号によると二市四町四村で366基の庚申塔が新造されたとある。
先般山梨県でも大きなそんな庚申塔をみた。
ねがわくば一部の懐古論者の扇動でないことを。

さて、この庚申塔は団子っ鼻で日本人のようではない。
頭はヘルメットを被っているように見える。
DSC.jpg

六手だが弓矢は省略されている。
三体並べてみるとおなじ日輪月輪を掲げるばんざい型だ。
むしろ一番古い形に似ている。
いまでも石屋にこんな型図が残っているのだろうか。
多くの新造庚申塔は文字塔であった。
それを見るたびに青面金剛像だったらいいのに、とおもいながら眺めたものだ。
それがやっとかなった。
うれしいことだ。

2007.07.17(05:53)|道端の神 道祖神庚申コメント(0)TOP↑
八王子新町の公園脇に庚申塔が二基並んでいる。
ひとつは梵字庚申塔で珍しいもの、というのは読めないからうつかりすると庚申塔であるかどうかわからないからである。
Dsc_1271.jpg

もう一基は顔が欠けてしまった庚申像だが下に三猿がいるからすぐ庚申塔とわかる。
湿拓の道具を忘れてしまったことを悔やみながら写真を撮っていると公園のベンチに腰掛けていた人が「そりゃぁ、以前はこの公園の向こうにあった」と話しかけてきた。
庚申塔なんかを写真を撮っていても、大抵はみんなむっつりしていて物好きもいるもんだというような顔をしている。
だからたまにそんな声をかけられると江戸時代から町人が抜け出してきたかの錯覚に陥る。
私とそれほど変わらない年恰好だから土地の長老というふうではない。
見てきたようなことを言うからである。
移動したのはそんなに新しくはないとおもうから。
20070713145849.jpg

日月の下に陰刻で梵字と講中敬白とあり右側に享保八癸卯歳二月吉祥日とある。
梵字辞典をみてもなかなか難しい。
ま、読んでもしょうがない。
享保といえば将軍吉宗の時代、既に庚申は庶民のものとなっていた。
講中二十一人の名前がある。

おい、うちの講でも庚申塔を建てようじゃねぇか
どんなのがいいかな
そりゃ 安くて他にねぇものがいい
それじゃ、真言はどうだ
青面金剛像を彫るよりゃ楽だから安い
それにしよう

なんてぇことで決めたかわからないが、もう石屋のメニューにあったんじゃなかろうか。

庚申の晩はみんなで集まってわいわいがやがやと、うちの庚申塔はちょっとそこいらにゃねぇな
どうでぃ、天辺のうーんという字は庚申さまの種字だぁな
そのひたは
青面金剛の心呪だ
なんてえんだ
おん でぃ ばぁ や きしゃ ばん だ ばんだ か か か ・・・・・

前置きが長くなってしまったが、珍しいものがあるとそうでないものはおろそかになってしまう。
困ったもんだ。
Dsc_1274.jpg

隣の顔が欠けてしまった方はどうした、こっちの方が高いぞ、やい
そうこうして基台をみていたら穴がある。
このくぼみはいままで甲州の丸石道祖神や諏訪の双体道祖神でさんざん見てきたものだ。
子供が叩いてあそんだものとか、たまった水で疣をとるとかいわれるが、そんなことの前にちゃんとした意味があったはず、謎の穴だ。
その穴が八王子の庚申にもあった。
さて・・・・。
        (八王子市新町 永福稲荷)
2007.07.13(15:03)|穴ぼこだらけの神様たちコメント(0)TOP↑
高遠の建福寺は守屋貞治の石仏で有名なところ。
狙いは西国三十三観音。
勢い勇んで出向いたのだが・・・・・
観音は三棟の覆屋におさまっていた。
その三棟はいずれも急斜面に石垣を積み上げその上に建てられている。
前列は一番から十四番まで、二列目は十五番から二十四番、最上段は二十五番から三十三番までが収められている。
最初からそうなっていたものかどうかは判らない。
Dsc_1106.jpg

覆屋には格子の戸がある。
中の仏像の写真を撮るにはこの格子の中にカメラのレンズを突っ込みワイド側で撮るしかない。
光線の具合は天が暗くなり最悪だ。
更に、この格子から覗くには石垣が邪魔して私の背丈では下の段しか届かない。
困った。

みんなしゃくりあげた画像で全身は写らない。
そんな方法でなんとか撮ったのは前列だけ。
あとは石垣の出っ張りに足をかけてなんとも不安定な格好で両端の仏像が撮れただけだ。
それに、もう何年もこうなっているのだろうか。
御像は土埃で真っ白だ。
覆屋といっても密閉されているわけではないから。
だれか格子から手を入れてお顔をぬぐったのか石の色があらわれている。
それは、それで、それなりの趣もあるのだが。
Dsc_1049.jpg

建福寺には西国三十三観音の他にも貞治仏がある。
これはこれで諦めて本堂の前に回るとそこにも覆屋があった。
佉羅陀山地蔵大菩薩、大きなお地蔵さんである。
Dsc_1061.jpg

佉羅陀山は地蔵の住み家という。
だから思惟の形なのか。
いまにも立ち上がりそうに蓮の一枚を踏んでいる。
造られてから一雨にも濡れていないらしく今彫られたばかりのように新しい。
灰色でなかったら石仏とはおもうまい。
これがほんとうの住み家かもしれない。
20070710093607.jpg

更に本堂の前に願王和尚の像があった。
これには簡単な屋根が乗っている。
これはあとから付けられたのだろう、御像は指先が折れている。
これなら全身が撮れる、とはいうものの天が暗い。

私は仏像を見に来たとはいうものの、その感激をずっと覚えているわけには行かないから、記録として写真を撮りたいとおもっている。
撮るからには綺麗に撮りたいとおもっている。
そう思うと、覆屋は邪魔である。
できればもっといい場所に移動して撮りたいとおもっている。
裏だって見たい。
鑿跡にだって触ってみたい。
ひたすら石の中から仏が出ると信じて彫り進めた貞治の気持ちを少しでも汲み取りたい。
そうおもうと覆屋は邪魔である。
石仏は雨風にさらされて苔むしてやがて崩れ去ってゆく、それが野趣というものだともおもっている。
だが、一方では貞治仏だけはそのまま残したいともおもう。
雨風に晒すには忍びないとおもっている。

甲斐の海岸寺に行った時、そこには100体の貞治仏があるのだが、多くは痛んでいた。
割れた部分は見るからに稚拙に接着剤を流してつないだものもある。
苔も付いていた。
簡単な屋根をつけた部分もあったが写真を撮るにはさわりがない。
覆屋を造ったほうがいいと進言する関係者もいるというのだが、多くの参拝者や写真家はこのまま手を加えずに自然の中において欲しいと嘆願するという。
こうなると私の気持ちは揺れうごく。
どんなことをしても自然の移ろいに棹差すことはできない。
今の写真を残すことこそ肝要じゃなかろうか。
Dsc_0197.jpg

(苔むした海岸寺の貞治仏)
2007.07.10(09:38)|貞治仏コメント(0)TOP↑
上津金の海岸寺に守屋貞治の百体の観音がある。
百体とは西国三十三観音・坂東三十三観音・秩父三十四観音で合わせると百体になる。
これだけ並んでいると壮観である。
高遠名石工守屋貞治をいっぺんに見られるというのに訪れる人は多くない。

Dsc_0243.jpg


寺に残る開眼供養の記録に貞治の本名定治郎の他に、藤兵衛、与左衛門、音兵衛、善左衛門の名前が出てくるのでこれらの弟子を使っていたのだろう。
守屋貞治は高遠藤沢郷塩供の人。
塩供(しおぐ)は杖突峠を越して高遠へ通ずる峠道にある。
私は諏訪で育ったから杖突峠を越えて守屋山の麓ぐらいまではアケビとりやきのことりに遊んだところだから同郷の親しみを覚える。

守屋貞治は上諏訪の温泉寺の禅僧、願王和尚と親交があり、仏像の知識や儀規はそこから学んだものという。
その願王和尚と親交があった海岸寺の桃渓和尚からの要請で最初に西国三十三観音から造り始めた。
文政五年三月十四日、温泉寺の願王老大師随徒三十余人を招いて西国三十三観音の開眼供養をしたという記録が残っている。
そのあと続けて坂東三十三観音、秩父三十四観音と八年近い時間をかけて百体を完成させた。

ずらっと並ぶ百体の観音を見ていると、長く伸びた細い眼や何かいいたげな口元に同郷の信州人の顔を感ずる。
どれもおなじ顔をしている。
弟子を使ったとはいえ、顔は貞治本人が彫ったものだろう。

Dsc_0246.jpg


ところがその中に違う顔がある、並んでいるからわかるのだ。
これは信州人の顔ではない、そう直感する観音がある。

Dsc_0207.jpg


西国三十三観音の開眼時記録に
石像観世音文化中 高遠石工三人にて十尊彫刻 其後仏師石工定治郎相頼ミニ付
極上細工三十三体調エ了タ・・・・
とある。
文化年間に十体ばかりつくりはじめたものの何らかの都合で中断して文政になって再開したらしい。
文化年間には高遠石工と言ってるものが文政には「仏師石工」と呼んでいるし、「極上細工」といっている。
最初は期待したできばえではなかったから中止したものか、今となってはわからない。

守屋貞治は仏像を彫っているところを誰にも見せなかったという。
誰かが見に来ると菰を被せていなくなるまで仕事をしなかったという。
仕事には数珠を持ち香を焚いて取り掛かったともいう。
自分の銘は入れなかったが晩年、生涯に作り終えた三百三十を越える作品のリストを残しているがそれには「石仏菩薩細工」という表紙が付けられている。
自ら細工といっているところからも並々ならぬ力量を感ずるのである。

Dsc_0254.jpg



石といえども維新の廃仏毀釈の大難にあい風雨にさらされてお姿は痛ましい。

2007.07.09(07:16)|貞治仏コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
志ん生の落語に「庚申待ち」というのがある。
江戸時代、庚申の日には鶏がなくころまで寝ないで話あかすのがならい。
「それが江戸中どこの家もそうだから、この日ばかりは泥棒がつとまらない」
とこれは落語のまくら。
日本橋馬喰町のある旅籠、庚申の晩は話あかすので泊まり客は断るのだが一人の武士をそのことを承知のうえで泊めることになる。
日が落ちると奉公人から主人までかわりばんてに話をはじめる。
話ったっておいそれと出てきはしない。
みんなうそっぱちのでたらめ話をしてつないでゆく。
そのうちに神様の番をするってのに馬鹿ッ話はいけねぇよ、
「熊こう、おめぇは話なんてねぇだろう」
「みくびっちゃいけねぇや、ほんとにあった懺悔話をからな」と始めたはなしは・・・・
二十年ばかりめえ、熊谷の土手で旅の爺さんが病に倒れたのに出っくわした。
爺さんを介抱していると胴巻きに二十両もの金を持っている。
つい出来心でその金が欲しくなって爺さんを殺して奪ってしまう・・・というもの。
泊まりの武士に主人が呼ばれて「衾の向こうで話がきこえたが、熊というものが二十両うばって殺した爺とはわが父である、ずっと旅をして敵を探しておった、今夜は庚申だから許すが明日朝仇討ちをするから逃がさないでおけ」
主人はあわてたが、熊こうに聞いても本当の話だといいはるので逃げないようにみんなで縛りあげておいた。
その夜は庚申待ちだというのに肝をつぶしてだれもしゃべらない。
シーンとしている。
翌朝、武士が発つと云うので、主人が仇討はどうするんで、と聞くと・・・
「あれは嘘じゃ、ああいわないとやかましくてねられない」と落とす。
江戸時代の庚申信仰の様子が伺えて面白い噺である。

江戸時代に庚申信仰が落語のように盛んだったことは今に残されている庚申塔の数が物語る。
おびただしい数である。

いつごろからそれが廃れてしまったのだろうか。
かつてはどこの街角にも建っていたのだろう。
今ではほとんど寺や神社の脇に集められている。
集められているものは幸運なものなのだろう、ほとんどは失われてしまったとおもわれる。
石だというのにほとんど風化して庚申塔だろうということぐらいしかわからない。
石のお地蔵さんなら風化しても野趣が残るものだが、庚申塔にはそんなものは少ない。
それは青面金剛の姿がいかめしいせいか、文字塔が多いせいか。

明治の頃には庚申塔を訪ねてあるくことが流行ったらしく百箇所の庚申場をめぐったなどという記録がある。
当時は歩いてまわったんだから百もの村々を探すのは大変だが、今では電車があるし車もある。
それに集められた場所だったらいっぺんに見られるというもの。
便利なものだ。
私も千ぐらいは訪ねてみたいとおもう。

そうなると寺や神社をかたっぱしから見てあるかないとならない。
八王子の最照寺という名前が地図にあったから飛び込むと寺の奥は八幡神社になっていた。
Dsc_1316.jpg

それは御影石の壇上に新旧の社があって狛犬もいた。
古いほうの社の脇に三基の庚申塔があった。
左は半分土に埋もれてほとんど風化し笠もなくなっている。
真ん中のは立派な青面金剛像で基台には三猿がいる。
裏には「大塚村同行十三人庚申天明二年壬寅十二月吉日」とある。
右のは御影石で庚申様はいかにも彫がいい。
新しいなとはおもったが、裏に回って目を疑った。
昭和六十一年四月氏子中とある。
昭和六十一年といえばついこの間だ。
「大島が噴火した年」といえばわかる、あぁ、あの時だと。

今でも庚申の講があるのだろうか。
まさか三尸の虫なんか信じまい。
まして庚申の夜明かしなんかしないだろう。
それにしても多くの人の賛同を得ないとこんな塔は建てられないはずだ。
よかった、いまでもこうした塔が造られているんだ。

2007.07.07(09:05)|道端の神 道祖神庚申コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
この猿変な顔してる
梅干でも食らったか
顔中しわだらけじゃないか
爺猿と婆猿か
前かがみで目はくぼんでいる。
神様にむかってそんなことを言うと罰があたりそうだが
かえって愛嬌がある。
Dsc_9425.jpg

富士塚に猿は付きもののようにいる。
御神猿とはいえ随分いたんでいる。
謂れによると建久四年、源頼朝は富士の裾野に諸侯を集め巻き狩りをした。
そのときこの宗岡の里人は勢子の役を課せられたが、褒美として年貢を免除された。
その記念に大野の地に浅間神社を作った。
しかし、荒川の洪水で羽根倉橋近くまで流され新天地を見出したが、さらに大正昭和の河川改修で二度の引越しを強いられ今に至っているのだという。
この猿もそのたびに引越しをしたものか、あるいはこの愛嬌ゆえにみんなに可愛がられたものか。

苦労したなぁ
そのかいあって
いい顔してるよ
門番の御神猿の内側に石灯篭があってその基台にも猿がいる。
Dsc_9427.jpg

この猿の担いでいるのは大きな御幣のようだ。
扇子を広げて鼓舞している。
御幣を富士山に揚げようとしているのだろうか。

このあたりからは今でも富士山がよく見える。

(埼玉県志木市上宗岡 富士浅間神社)
2007.07.03(07:40)|石になった猿たちコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
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Author:牛鳴

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