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写真や絵手紙など牛鳴HPの玄関先です「牛鳴さんちのたからもん」

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与太郎が普請を褒めればご祝儀が貰えると知恵を付けられて新築の大家さんちにいった。
付けられていた知恵とは「もし節穴があったら火伏せのお札を貼ればいい、穴が隠れて火の用心になる」というもの。
さて大家さんちでは節穴のくだりも上手くいって大層褒められた。
ついでに飼っていた牛を褒めてやる。
牛の尻の穴を見つけて「ここにも節穴がある お札を貼れば穴が隠れて屁の用心になる」と落とす。
昔は「火の用心」と書いた赤いお札がどの家にも貼ってあったものだが最近、とんとみないねぇ

いくら火の用心をしても自然発火の野火や山火事は防ぎようも無い。
秋葉権現かお犬さまのお札を貰って祈るしか手立てはなかった。

秩父の三峰山も八王子の高尾山も火伏せの神様である。
武蔵野はこれらの山に近いから信仰も盛んだった。
高名だがいざ行くとなると山だから結構大変だ。
そこで近くに支所!ができる。
お札は簡単に手に入る。
八王子元横山町の妙薬寺もそんなところであったらしい。
烏天狗がいるというので訪ねてみた。
天狗も烏天狗も鼻や嘴が長いからすぐに折れてしまうので良い石造物は多くないからである。
いるには居たが本堂の裏に基台とは別になってあった。
烏天狗は鬱蒼とした木々に隠れていた。
もう火伏せの神様も用済みということか。
20070630075252.jpg

烏天狗の嘴は折れているし手もなくなっている。
乗っている白狐の首もない。
これじゃ、天狗の霊力も発揮できまい。
こまったもんだ。

秋葉大権現は信州の飯綱山の生まれという。
こんなふうに伝えられている。
母は厚き観世音の信仰により聖子を生もうと専心祈念の折、ある夜観世音が迦楼羅身をみせ懐妊した。
その子は利発で七歳にして修験の道に入り阿じゃ梨となった。
かくして古志の国蔵王堂十二坊である三尺坊の主となり、失火延焼の難を逃すを第一義とした十三ヶ条の請願をたて、日に千度の護摩座を踏み三十七日間不動三昧の修法ありし満願の暁、香煙の中に迦楼羅身を感見し累積の煩悩一時に消滅して飛行自在の術を得たという。
三尺坊はある日、白狐にのって空中を飛翔し遠江国周智の秋葉山に降ったという。
ここまでだと人なのだが格好は何故か烏天狗である。
口は烏の嘴の形をしていて金色の双翼をつけ手には剣と索を持ち迦楼羅炎という火焔を背負っている。
これなら猛火も防げるかもしれない。
20070630075409.jpg

御影石の大鳥居が倒れている。
隣には大きな灯篭が立っている。
かつてはこの秋葉大権現もにぎわったのだろう。
灯篭は鳶中と書かれているから鳶職の仲間が寄贈したものか。
火消しの持っている鳶口も烏の嘴に似ているから、こんなところで繋がっているものだろうか。
鳶職は火消しに近い。
灯篭もだいぶ痛んでいる。
その灯篭を担っている彫刻がまた素晴らしい。
唐子だろうか、重そうに灯篭を担いでいる。
加わる重さにじっと耐えているようだ。
こんなところに名脇役がいた。
かなりの名工の手によるものだろう。
こういうものはもっと丁寧に補修してやらなければいけないとおもう。
烏天狗は傷ついてがっかりだったがそのかわりこの名脇役が見られたのだから、よしとしよう。
20070630075514.jpg

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2007.06.30(07:55)|未分類コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
近くだからよく通るのだが奈良橋庚申塚という交差点が青梅街道にある。
奈良橋庚申塚というくらいだから庚申塚があるはずといつも通るたびに周りをみるのだが庚申塚らしいものは見えない。
その交差点からすこし北に入ったところの雲性寺にある歴代住職の墓地に大変珍しい六臂地蔵があるというので訪ねてみた。
六臂地蔵は一体で六本の手がそれぞれ六地蔵の持物を持っているというもの。
20070623072000.jpg

確かにお地蔵さんの顔をしているが、手は六本ある。
仏像図鑑の絵からそのまま抜け出したような円形の仏像だが、仏像図鑑にはこんなお地蔵さんは出ていない。
さてさて、お地蔵さんという方は多彩な方だ。
この雲性寺の山門前には馬頭観音や百番供養塔などと一緒に庚申塔がある。
ひょっとしたらこの庚申塔が奈良橋庚申塔じゃないだろうか。
ひょっとしなくてもそうであった。

20070623072102.jpg

道路改修で昭和のはじめにここに遷されたものだという。
ちゃんと銘がある。
武州多摩郡村山郷奈良橋村施主講中
享保十六年辛亥霜月吉祥日願主法印傳翁
台座正面には
東 江戸道
台座左側 北 くわんおん道
台座右側 南 府中道 西 中藤 左 青梅

この北には観音はないが雲性寺には観音堂があるから今の奈良橋庚申塚信号付近にもともとあったとすれば台座の道しるべと合う。
長年の鬱積が急に晴れたような気がした。
しかし、まぁ、庚申塔はごく普通の形であった。
こ多分にもれず苔がついて青面金剛の像も薄れているし踏んでいる邪鬼も三猿もとろけてしまっている。
昔の人のように百箇所もの庚申を訪ねることができるだろうかと、いろんな庚申を訪ねまわっているのだが、まいどおなじような形だと拍子抜けしないでもない。
Dsc_1235.jpg

傍らの案内図には
こうかいてある。
どうも意味が通じない。
何回も読み直したが、この庚申塔のことではない。
別の庚申塔が本堂においてあるということらしい。
ならばこの庚申塔の傍らに置くべきではないのに、まぎらわしい。

歴代の墓地や観音堂をみた後だったが、もういちど山門をくぐり、本堂へ戻ってみた。
あいかわらず人影はない。
意を決して呼び鈴を押してみた。
住職はジャージを着て随分リラックスしたように出てこられた。
庚申のことをいうと、「それなら本堂にあるから今もってくると・・・・」
もってくる・・・・、そんなに小さなものか。
暫く待っていると片手で掴んで持ってきてくれた。
それは三十四センチX二十センチほどのもので庚申塔とはとても呼べないほどのものであった。
元からあった場所にはもう台座も無くなっているとのこと、
こんなものだからと、盗難にあうかもしれないから引き上げたのだという。
もともとあったという六地蔵の脇においていただき写真を撮らせていただいた。
月輪にア字とその下に三猿がいる。
裏側には正徳六丙申三月法印傳栄とある。
傳栄とは雲性寺の中興の祖であるという。
正徳六年は1716年である。
すると奈良橋庚申塚のものより古い。
庚申信仰は仏教色が薄いものだが、これは仏教系統のようだ。
傳栄みずから刻んだものか、そんなふうに感じられる。
傳翁とは傳栄とすれば、こんなみすぼらしいものではなく立派な庚申塔を建てようと自ら願主となったのかもしれない。
今となっては、こちらのみすぼらしいものの方が珍しいと珍重されているが・・・。
20070623072312.jpg

それにしてもこの猿、蛙のようだねぇ
2007.06.23(07:24)|道端の神 道祖神庚申コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
普段何気なく見てしまっているお地蔵さまだが、それをたてるとなれば並大抵なことではない。
伊那市箕輪の長松寺に建立した地蔵尊の諸費用を詳細につづった記録が世話人だった家に伝えられている。

文政十年亥年 世話人与市 善五郎
御尊体二尺三寸
蓮花七寸柱などあわせると総御丈 七尺八寸
地蔵尊としては大きな方だろう。
分からない言葉もあるのでおおよその要約だが

石屋定治郎手代藤兵衛
 八月四日
 八月十一日から二十二日(月末九日休み)
 九月一日から二十八日(月末二日休み)
 十月一日から二十八日(月末二日休み)
 十一月一日から十日
         〆て七十八工 二両二分三朱
石屋定治郎
 九月五日から二十九日(月末一日休み)
 十月一日から二十九日(月末二日休み)
 十一月一日から十日
         〆て六十三工半 二両

八月四日手代藤兵衛によって石の詮議から始まっている。
休みは月末少しやすむだけでほとんど毎日働いていることがわかる。

石詮議 八月四日二人
石ほり 八月十一日五人
     八月十二日一人
     八月十三日一人
石だし 八月二十四日 十一人
     九月二十六日 四十一人
堀切  九月二十五日 五人
     九月二十七日 一人
ふち立 十月二日 一人
石だし 十月四日 三十四人
     十月五日 二十一人
石つき 十月七日 七人
石いれ 十月八日 二十三人
石つき 十月九日 七人
     十一月一日六人
餅つき 十一月九日六人

切りだした石を運びだすのに大きな工数がかかったことがわかる。
石は御尊体のほかに蓮花・立角・中台・角台・芝付の六個である。
これらの人足は村中の総出によるものにちがいない。

十一月十日開眼供養の前日に六人もで餅つきをしていることからも、この普請への思い入れが感じられる。

支払った費用の一部をあげると

石屋定治郎・藤兵衛への
作料 四両壱分二朱
飯料 一石七斗七升
大工木挽  銀十二匁
石だし酒代 銀四十三匁
石だし米代 銀十五匁
鍛冶炭六俵 銀九匁
貞治殿祝儀 金一分
藤兵衛祝儀 金二朱
村方石屋七人 銀十二匁
金百疋 目明け和尚さまに差し上げ分
銭二百文 目明け法印さまに差し上げ分
  等など

大工木挽きというのは覆屋をこしらえたものか。
鍛冶炭は鑿の焼きいれに使うもの、六俵とは随分使うものだ。
文政十年といえば定治郎六十三歳だから既に高遠石工守屋貞治として名を知られた時期であることにちがいないのだか、手間賃が特別に高かったとは思えない。
作料が弟子の藤兵衛と変わらないからである。
それに守屋貞治ではなく石屋定治郎といってることからもわかる。
作料のほかに飯料というのがある。
ほとんど毎日小屋に泊りがけで食事の世話は村のかみさんが当たっていたのかもしれない。
開眼供養に和尚さま、法印さまへというのもある。
それにしても随分の入用である。
これらの入用は村人の寄付によって集められた。
租寛尼という方が金三両をだしているが、発願者の尼僧だろうか。
他の百十三人は百文、二百文といった寄付が多く、何某の母、隠居から寺の小僧まで名を連ねている。

金と銭数え方も違う、米も対価であったから今の金額に単純に直すわけにはいかないがおおよそ換算すると六十六万円強になるという。
さて、これは高いか安いか、ともかくも何気なくみすごしているお地蔵さまも、こうしてみるとありがたくおもわねばなるまい。
たまたまこの村の記録だがお地蔵さまを作るなどということは、何処でもおおむねこんな具合であったとおもわれる。
これほどの村人の心情がこもっているのだから、何気なく見ているなどとはもったいないことである。
2007.06.19(08:51)|貞治仏コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
恐竜の化石はあちこちで出ているが、恐竜の足跡というものが残っているのだという。
なるほど写真などで見ると水辺を歩いた跡のように見える。
八ヶ岳の麓にある甥の家に恐竜の足跡じゃないかという石があって、見せてもらったけれど足跡のようでもあり単なる凹みのようでもあった。
時代というものはそんなものである。
薬師寺にお釈迦様の足跡、すなわち仏足石がある。
国宝である。
本の写真で見るとただの石のようだから拓本にしてあるのだが、それもよく見ないとわからない。
さすがに天平からの時代は長い。

高遠の建福寺に仏足石がある。
それは薬師寺の仏足石を模したもので造られたのは天保六年だというから、建福寺にたくさんある守屋貞治の石仏よりは後に作られたことになる。

20070616091642.jpg


噴出しは花の香りか香華か、宝のありかを示す謎の古地図のようでおもしろい。
この石、青みがかった硬い石のようだから、高遠でとれる閃緑岩だろうか。
貞治なきあとの高遠石工の手によるものか、これならあと千年ぐらいは持つんじゃなかろうか。

それにしてもお釈迦様は偏平足なんだなぁ

2007.06.16(09:18)|未分類コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
諏訪側では高遠へ通ずる峠を杖突峠という。
当然その高遠への一本道は杖突街道と呼んでいる。
だが高遠側では藤沢峠であり藤沢街道なのである。
フォッサマグナの通り道らしく険しい峡谷の街道であるのだが峠道というにふさわしい趣のある街道の姿である。

Dsc_1112.jpg


諏訪と高遠は古くから犬猿の仲にあった。
守屋文書を見るにつけ諏訪と高遠の血なまぐさい戦が頭をよぎる。
諏訪が武田に下ったあとは諏訪と高遠の争いは収まり、信玄の弟、仁科五郎盛信の居城であったから暫くは平穏無事に行き来する賑やかな街道であったが、織田信長の侵攻にまたもこの街道で何千何百もの死人が出ている。
杖突街道はそんなわがふるさとの歴史を背負った街道である。
高遠からの坂は徐々に峠に向かってのぼり、最後は片倉の集落となる。

薬師堂のバス停を旧道に入ると半ば土に埋もれた道祖神が二つある。
血なまぐさかったいにしえの霊をなぐさめるかのように、静かに微笑んでいる双体道祖神の姿がある。
道端にたつ庚申や道祖神というものは、今ではどれも摩滅が進み、そのふるみがかえって野趣をかもしだすものとなっている。
ここの道祖神もそれらとおなじようにほとんど磨耗して顔の表情はよくわからないほどだ。
しかも右肩はおおきく割れている。
藤沢川の氾濫で埋もれたものか土に埋もれた姿は痛ましい。
多くの道祖神は縦に長いものだが、これは横に長い。
いわばシネマスコープなのだ。
今流にいえばパノラマサイズかハイビジョンか。
もっとも土に埋もれている部分の丈がわからないから初めから横長であったかどうかしるところではないが、もしずっと下まであると想定するなら、堂々たる道祖神ということになる。
いずれにしてもこの街道に沿って流れる藤沢川は暴れ川だったにちがいない。

Dsc_1131.jpg


顔はお地蔵さんのようにも見える。
その顔に守屋貞治などの高遠石工の地蔵の顔がだぶってくる。
両端は御幣だろうか。
さすがに守屋貞治を輩出した地である。
いつのものか判らないが腕のたつ高遠石工によるものに違いない。


Dsc_1130.jpg

2007.06.15(08:47)|道端の神 道祖神庚申コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
庚申塔もそうだが道祖神も文字を書いた塔がある。
神や仏だとよく見ないと道祖神なのか庚申なのかわからないものだが、文字だとそのものずばりであるから明快でいい。
とはいうものの文字だけでは物足りないとおもってしまう。
まして少しは味のある写真を・・・などと欲張ると文字塔は敬遠してしまうというものだ。
だが、これは違う。

20070614163417.jpg


この巨大な自然石に彫った道祖神の文字はどうだ。
寝かせて水を張れば金魚が飼えるじゃないか。
いいや、手水鉢にもなろう。
杖突街道の藤沢郷弥勒の道祖神場にあった。
ほかにも幾つもの庚申塔もみんなこんな文字彫刻である。
さすがに高遠石工のふるさととうならざるを得ない。

Dsc_1114.jpg


杖突街道をさらに北に進むと塩供の集落にでる。
塩供は高遠石工守屋貞治の生家があるところだ。
その道祖神場にもすごいのがあった。
梅の花だろうか
松の枝だろうか
すると縦の棒は竹だろうか
なんだかわからないがちゃんと道祖神と読めるじゃないか

道祖神にはいろんな形があって道祖神とは何なのか、もやもやとよくわからない。
もやもやとよくわからないのが道祖神なのだが、これはもやもやとよく読める道祖神である。


2007.06.14(16:37)|道端の神 道祖神庚申コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
これは馬頭観音である。
というよりは馬の頭を飾ったお地蔵さんである。
いいゃ、飼い主の馬方である。
憤怒相の大きな馬頭観音とはちがう、ずっと一緒に暮らしていた馬の供養のためにこしらえたものだ。
横吹は富士山がよく見える八ヶ岳の富士見高原にある。
野仏というにふさわしい場所である。
このおやじ、いい顔をしてるじゃないか。
そのまま出てきて話始めるようじゃないか。
DSC_0973.jpg


「どぅでぇ」
「ごしてぇなぁぇ」
「一服してくかぇ」
「何処までいくかぇ」
「どぅでぇ」
「のってくかぇ」
「富士山がきれぇだ」
「なぁ」

2007.06.07(07:38)|未分類コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
甲斐と木曾は悲運のつながりがある。
木曾は朝日将軍木曾義仲の十八代子孫木曾義康の時、武田信玄の侵攻に敗れ武田勢となる。
弘治元年のことである。
このとき、娘の岩姫を人質に差し出し、長男義昌は信玄の三女を娶った。
いわゆる政略結婚である。
その後、子に恵まれた義昌は嫡子千太郎と娘を人質に差し出した。
信玄の後を継いだ勝頼は新府城を建てていたこともあって木曾の木材を課役として厳しく取り立てた。
義昌は武田勝頼の課役が重いという理由で信長に寝返ってしまう。
ここで木曾を見方にした信長は一気に甲斐を下してしまう。
これは歴史の表舞台なのだが、岩姫や義昌の子、信玄の娘はどうなったのだろうか。
DSC_0788-.jpg

小淵沢の道祖神へ向かう途中、韮崎の光明寺で木曽氏の墓という案内を見つけた。

景色のいい高台の寺である。
木曽氏の墓は卵塔や五輪塔がならび静かに眠っていた。

武田方を裏切った義昌は後に信長から恩賞として松本の深志城を与えられ、安曇の領主となるのだが、信玄の三女真理は夫の裏切りに激怒し、末っ子を連れて御岳の山中に六十年も隠遁してしまったという。

DSC_0785-.jpg

DSC_0789-.jpg


この時代の裏方は悲運を背負っている。
裏切られた武田勝頼は報復として岩姫を殺す。
さらに義昌の嫡子千太郎十三歳、娘十七歳、祖母七十歳を召して自決させてしまう。
時に天正十年三月のことであった。

その墓がここにある。
この寺に幾つもの地蔵さんがいる。
木曽氏に関連があるのか、それはもうわからないが卵塔や五輪塔のような墓と比べると仏像ははるかに人情味がある。
ここの地蔵さんを見ていると歴史の裏舞台にいた人たちを写しているようにみえる。
それは裏舞台という悲運にもとらわれずに、与えられた運命をしずしずと楽しんでいるかのように、柔らかく安堵に満ちているような気がする。

高名な石工は伝来の木型や図面で彫るというけれどこの石工はそんなものを使ってはいまい。
いきおい父母や子供など親族や村の衆、寺にかかわりのある人、そんな石工のまわりをとりまく顔がそのまま鑿先にあらわれているのではあるまいか。
2007.06.06(08:38)|未分類コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
龜という字は難しい。
書き順もよく知らないから画数も数えられないが、今の字引では十六画である。
画数を数えられなくても、字引では一番最後だからすぐわかるわけだ。
正確に書くことはできないから略字の亀ですましている。
Dsc_9929-.jpg

亀は万年生きるというからそれにあやかって亀のように万年も長持ちするようにと大事な仏様は亀の台を作ってのせた。
それを亀趺(きふ)という。
石仏を訪ね歩いているとよく出会う亀なのだが、甲羅があるから亀とわかっても顔を見ると亀ではない。
亀は象形文字だが文字が創られた中国の殷時代に居たその亀はどんな顔をしていたのだろうか。
この亀を刻んだ石工とて殷の亀なんか見たことはないのだろうから、それにこれを見る人だって知らないのだからどんな顔に彫ってもいいわけだが・・・。
この亀はどう見ても猿をモデルにしたようにしか思えない。
甲州は昇仙峡へ登る街道の中ほど、平瀬町の上野村落にある道祖神。
背中の三宝に乗った丸石はよほど大事なものに違いなさそうだ。
丸石は最初からあって木の社に入っていたものか、各家に散らばっていたものか。
唯の河原の丸い石のようにしかみえないが、これらの丸石のために作られた三宝であり亀趺であろう。

Dsc_6574--.jpg

もう一つ亀の顔を覗いてみよう。
秩父の金昌寺に亀趺にのったお地蔵様がいる。
その亀趺の顔ときたら飛びぬけて怖い顔をしているが、どうやら龍をモデルにしたらしい。
出した手を思わず引っ込めたくなるような怖い顔である。

おなじ亀とはとても思えない。
2007.06.05(07:50)|未分類コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
熊谷次郎直実の愛馬、権田栗毛終焉の地が三の倉にあった。
熊谷次郎直実といえば源平の一ノ倉の合戦である。
時は寿永三年、1184年のことだから古い。
Dsc_0670-.jpg

そこにはお堂と石祠、観音像、庚申など並んでいたがどれが権田栗毛の墓なのかはわからない。
目に付いたのは馬小屋から顔をだしている仔馬であった。

Dsc_0667-.jpg

それは栗毛ではなく白馬だったから、子供の頃家の小屋に居たヤギの子のようであった。
神様を馬小屋なんていったらしかられそうだが、それほどかわいらしい仔馬だったから許してもらいたい。
足が折れた馬の石像だが最初からここに入っていたものか判らないが、そのようでもある。
馬の人のかかわりの深さは、石を訪ねてあるいていやというほど馬頭観音に出会うことからもわかる。
ここもずっと馬の供養がされてきた場所にちがいない。
なんとも人恋しく待っているようでいとおしいじゃないか。
おもわず手をだして触ってみたくなる。
   (倉渕町三ノ倉)

2007.06.04(08:04)|未分類コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
榛名町に郷見神社がある。
村の集会所の隣にあるさほど大きくない神社だが高台の上で榛名山の眺めがいい。
裏に回ると庚申塔や青面金剛の像、石の祠などがならんでいる。
DSC_0662-.jpg

さて、そこから石段を降りたところにも社があった。
それは前宮と書いてあったからもともとこの神社があつた場所かもしれない。
そこには二基の大きな石の祠があった。
甲州でよく見てきた妻飾りに鬼面がある石祠である。
群馬にも同じような石祠があるものだと、甲州のように丸石でも入っていないか期待して中を覗いておどろいた。

中には何も入っていなかったのだが、驚いたのは前面に彫られた猿である。
多分猿であろう。

DSC_066-.jpg

何をしている状態なのかよくわからないが庚申の三猿ではなかろうか。
するとこの石祠は庚申のためのものか。
とすると妻飾りは鬼ではなくて猿田彦の顔か。
石段の上の郷見神社のものよりは古そうだ。
前宮というくらいだから古いにちがいない。
探したが年号などは見つからなかった。
庚申の猿は面白いものがおおい。
その中でもこんなのは初めてだ。
それにしても何をしているのだろうか。

(榛名町 郷見神社前宮)
2007.06.03(06:26)|石になった猿たちコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
お前は誰だ。

ワシは神様の使いじゃ
傲慢な人間のことはそのまま神様につたえなきゃならん
だからそのままの姿を
真似をしているのじゃ

Dsc_9679-.jpg


貴方達はだれ

隣の庚申猿です
おかしくて
もう
どうかなりそうです

クッ クッ クッ クッ


Dsc_9676-.jpg

2007.06.02(06:04)|石になった猿たちコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
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Author:牛鳴

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