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写真や絵手紙など牛鳴HPの玄関先です「牛鳴さんちのたからもん」

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私のふるさとは山深いが猿は見たことが無い。
猿はもっとずっと山の中にいるものと思っていた。
ところがこのところ石仏を訪ねてまわっていると、東京に近いこんなところにというような場所で猿を見かけることがある。
この前、お袋の七回忌で田舎に帰って聴くと、高部の村にも猿が降りてくるという。
殖えたのか山の食料が乏しいのか。

それはさておき、石仏の中にも神の使いの動物がでてくる。
狛犬や狐、鹿や牛、虎に龍・・・・
しかし、猿は多い。
多いばかりか実に愉快なものがおおい。
それだけ猿が人間に近いからか、あいや、神に近いからか。
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この猿は川越の富士見町浅間神社を護っている。
護っているというより自分達の祝言のようだ。
その表情は嬉々としているし、冠や着物に施された模様まできりっとしている。
いまにも立ち上がって舞い踊るようじゃないか。
余程の名工の手によるものじゃなかろうか。

石仏の猿は庚申に付き物のように刻まれている。
それらはほとんど形だけのものがおおい。
それに比べると山王の猿にはリアルなものが多いようだ。
石仏を訪ねまわっていると本物の猿にであうように、石の猿にもでっくわす。
その猿は本物の猿よりははるかに猿らしい。
この神社は玉垣がめぐらせてあって簡単には中に入れない。
そのせいだろうか。
保存がいい。
Dsc_0030-.jpg


こんな猿なら幾らでも出てきて欲しいものだ。
神様は決して姿を見せないものだ。
だからその仲介を猿がするのだという。
この猿はどんな神様のお使いなのか。
このところ近隣に出没する猿も最近さっぱり信心が遠くなってしまった現代人にメッセージを伝えるために使わされた猿であるようなきがする。
あまりにも高慢で身勝手で贅沢で浅はかであいまいでこんこんちきで・・・・・。
現代人と自負する人間どもよ。
心して猿と対面すべし。
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2007.05.31(09:23)|石になった猿たちコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
浅間神社からさほど遠くない長井の川西地区に実際に百基の庚申塔が建ててある。
本当に百あるのか数えてないからわからないが実際百あるとおもう。
そんなふうに並んでいる。

20070530064535.jpg

百庚申には親庚申があるというのだが、どれなのかわからない。
大きなのも小さなのもある。
どれも文字で庚申とか庚申塔とかかれている。
中には猿田彦だとか青面金剛と書かれたものもある。

20070530064653.jpg

そんななかに高神があった。
さらに孝心塔もあった。
顔が三つあり手が六本もある庚申様なんだから書きようが幾つあっても不思議じゃないけれど、さてさて庚申様も忙しい。
石屋さまもいそがしかろう。
DSC_0768-.jpg

(倉渕町権田長井)
2007.05.30(06:49)|道端の神 道祖神庚申コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
一よりは五、五よりは七、七よりは百・・・・
数は多いに越したことはない。
庚申塔は講の記念碑のようなものとおもっていたが、どうもそうではないらしい。
庚申になぞらへて何かの願掛けをしたものか、あるいは隣の講と競い合ったものか。
五庚申とか七庚申と文字書きした塔もあるという。
文字なら千でも万でも書ける。
ところが倉渕の浅間神社に百体もの庚申像を刻んだものがある。
一面に二十五の青面金剛像が刻んである。
整然と並んでいてどれも同じ顔をしているがまったくおなじということはない。
そこは人の彫ったものである。
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こういうのは触れてみないとわからない。
なでてみないとわからない。
なんとも庚申様らしい顔つきじゃないか。
手が六本あるから六百もの手を刻んだことになる。
日輪も月輪もある。
なんとも素晴らしい石仏じゃないか。

寛政六年甲寅天六月如意日という銘もある。
二百年ものあいだ、いったい何人の人の願掛けを成就させてきたものか。
それが、今では誰も訪れる人とてなく杉の枯葉に埋まってしまつている。
庚申さまも目を吊り上げて怒っておられよう。
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2007.05.29(08:41)|道端の神 道祖神庚申コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
秋に続いて倉渕に行ってきた。
道祖神を訪ねていってきた。

これらの道祖神はいったい何だろうか。
神様であるのだろうか。
私のふるさと、諏訪にも双体道祖神がある。
ほとんどは二人が居ることが判明できるぐらいに磨耗しているものがおおい。
そこに行くと倉渕の道祖神は明確だ。
髪の形や衣装もわかる。
赤く塗られた顔料も残っている。
それにこの表情はどうだ。
このしぐさはどうだ。
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私のふるさとの双体道祖神は、それが神様というよりも、その場所が神の場所なのであった。
村の境にあって、双体道祖神のほか月待ちの碑やお地蔵様、観音様、庚申塔、蚕玉様までならんでいる。
子供の稲虫講では村中の害虫が道祖神の境からとなりの村に出て行けと囃しながら鉦太鼓を打ち鳴らすのだ。
だからしばしばとなりの村と喧嘩になった。
古文書にもある、コレラが流行ったときは道祖神に注連縄を渡して四六時中鉦太鼓を叩きコレラが村に入ってくるのを防いだと。

倉渕の道祖神は村の境にしては驚くほど近い場所にある。
歩いて二三軒先の場所に別のものが立っている。
そんな双体道祖神を見ていると、道祖神というからには神様に違いないとおもうのだが、これが神様であるような気がいっこうにしない。
苦しいときに、藁にもすがりたいときに、駆けつけられる高位の神様のようには見えない。
なんともほほえましい夫婦の姿ではないか。
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それは子宝を得よと願かける場所か、夫婦仲のとりもちを願かけした場所のような気がする。
昔は相手の顔も見たことがない状態で嫁入りしたのだ。
時にはこんな場所へ立ち寄る必要があったのではなかろうか。
隣の嫁さんと一緒に立ち寄れる場所ではなかったか。
野菜をあらい、米を研ぐ、そんなときにそっと立ち寄れる場所ではなかったか。
誰かにそれを見られてもはばからない場所だったのではないか。
そんな距離に存在する。

道祖神は古事記の塞坐黄戸大神(さやりますよみとののおおかみ)まで遡るという。
黄泉の国の入り口を塞ぐ神様である。
黄泉の国は仏教のあの世に取って代わられ、すっかり忘れられてしまい塞の神と語呂の似ている妻の神に代わってしまったのではないか。

いずれにしても、今となっては道祖神の形からその意味を詮索することはできない。
ただ、こんな像を彫った石工や作らせた人々、その状況におもいをはせるだけである。
残っているものはそんなに古いものではない。
たった江戸時代のことじゃないか。
想像は及ぶじゃないか。
2007.05.28(09:57)|道端の神 道祖神庚申コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
甲州の帯那山から兄川と弟川という川が笛吹川に流れ込んでいる。
兄川の中ほどに水口区の中組という部落がある。
そこには奇怪な首地蔵が道端を陣取っている。
このあたりは土の中に大きな岩が眠っているらしい。
普段は水量がすくないが一雨降れば暴れ川となって鉄砲水は兄川に巨岩を落とすのだ。
そのひとつだろうか、太良峠への路に六畳ほどの岩があって地蔵の首がすげてある。
それは奇怪な様子を呈している。
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その岩について伝わる話のあらましはこうだ。
今から数百年前大水が出て、村の数戸が崩壊した。
そのとき十二、三のおみよという女の子が背中に負ぶった赤子と一緒に落ちてきたこの岩の下敷きになった。
以来、この地区の赤子は激しく夜泣きをし、何かにおびえるようになった。
しかもこの岩は夜になるとすすり泣くという。
みんな、それはおみよの祟りだとうわさした。
旅の僧がそれを聞いて地蔵の首を彫り岩に載せて供養するとぴたりと止まったと。
今は首地蔵と呼ぶ。
その首地蔵は今もお彼岸には供養しているらしく白いたすきがかけてあった。

また、こんな話も伝わっている。
この道は積翠寺の要塞に通ずる重要な道である。
その道の真ん中にあって邪魔になる。
なんとかどかそうとして鑿を入れた石工が怪我をしたというし、動かそうとしたものは病気などの災いがあった。
そのため毎年ねんごろに供養するようになったと。

この自然石に首が乗っている形は下諏訪の万治の石仏に似ている。
銘はないから、似ていてもおなじ作仏聖ではなさそうだ。
作仏聖とは旅をしながら行く先々で仏像を刻んだ円空や木喰である。
この首をみていると、おみよの霊が癒されたとおもえるような優しい表情ではない。
とてもいかめしい仏像の顔である。
旅の僧侶が石の彫刻など簡単にできるものではない。
作りなれた石工が作ったものだ。
石を動かそうとして災いがあってそのための供養に石工が彫ったと考えたほうが自然だ。
石工の集団とはそんな律儀な集団であったとおもう。

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横からこると顔がしゃくれている。
おなじこの辺に多い石材だろうか。
元々頭の形に似ている石材を使ったようにもみえる。
周りの山は単独の岩がおおい。
おなじように転がってきたものとおもわれる巨岩があちこちにみえる。
兄川はほとんど水がながれていないが、川底には洗われて滑らかになったそんな岩が累々としている。
雨で暴れるたびに転がり出た岩は流されるにしたがって角が削れてまるまって笛吹川に運ばれてゆく。
甲州の葡萄畑や耕地は洪水のたびに流されて堆積した泥だから掘れば丸い石が現れる。
甲州に丸石神の多いのはこんな条件があるからじゃないだろうか。
屋敷の庭や葡萄畑には神様じゃなかろうかとおもうほど丸い石を積んだ石垣がある。
段々畑の境にも先祖代々長いことかかって掘り出したであろうそんな石が積み上げられている。

この首地蔵に並んで丸石道祖神がある。
それもおなじ石なのか、あるいはそれもおなじ供養のためか。
20070527075851.jpg

それにしてもこの首地蔵、赤子の夜泣きを止めるどころか自分が泣いているようにみえてならない。
電信柱を立てられたりゴミの集積小屋を作ったり、カーブミラーがあったり、いったワシを何だとおもっているのか。
ワシは神様じゃぞ。
そういって嘆いているようにみえてならない。
中組の人、そうおもいませんか。
2007.05.27(07:59)|未分類コメント(0)トラックバック(0)TOP↑

記事の最後に「拍手」というマークがついていることに気がついた。
何だろうとおもったら、「たまたまこの記事をよんで面白いとおもったら拍手をクリックしてください」ということらしい。
そのまえに誰かが訪れてくれなけりゃならないし、読んでくれなきゃならない。
ヤフーの何とかシティーというの書いていたころ、「いいバッチ」というのを貰ったことがあるが、それは誰かがチェックして選定しているのだそうだ。
それもよくわからい仕組みだ。
トラックバックという仕組みもよくわからない。
ブログは書くのに簡便でいいがまだ開発途上国のようだ。
2007.05.26(08:48)|未分類コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
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道祖神に丸い石が積み上げてある。
その石を囲っている石には不規則に窪みがあって昨夜降った雨か水が溜まっている。
塩山市の下井尻の路傍である。
以前こんな話を聞いたことがある。
子供達が小正月に石棒でこの窪みをコツコツと叩きながら「こんぼーめ」「こんぼーた」と囃して丸石を転がすと。
この道祖神の石を見て「ハッ」とおもった。
私のふるさと諏訪で赤ん坊のことを「こんぼこ」というのだ。
「こんぼーめ」とは「こんぼこを産め」といっているのだ。
「こんぼーた」とは「こんぼこが生まれた」といっているのだ。
すると石棒で窪みを叩くのは生殖の行為じゃないか。
丸石が多いのも沢山生まれるようにという意味だし、子供達の数も多かったのだろう。

道祖神で正月に飾った角松や注連縄を集めてどんど焼きをするのは子供の領分である。
この風習が子供の儀式になったのはそんなに古くないとおもっていたが、実はずっと子供の儀式ではなかったか。
ここに竹と杉の枝で小屋を作って青年の仲間に入る子供達が泊り込むという。
そんな儀式も縄文のころから受け継がれた子孫繁栄、五穀豊穣の儀式ではないか。
大人の仲間に入るための教育の場であったのだろう。
いったいどれだけの時代を経てこんな窪みができたものか。
縄文の遺跡から蜂の巣石という窪みを持った石が出るという。
ものを押さえる道具であるとか先を尖らせる道具であるといわれているが、用途ははっきりした定説が無い。
それらの蜂の巣石はこの道祖神の窪みにそっくりだ。
気の遠くなるような前から受け継いでいる儀式かもしれない。

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山梨県にはこんな丸石道祖神がいっぱいある。
写真を撮っていると土地の人が塀の影からいぶかしげに睨んでいる。
「こんちわ ここはなんと言う場所ですか」
とまず声をかけるとやっと安心したのかどっと話しかけてくる。

下於曾・・・・
叩くことはしねぇ

昔はどんど焼きの前に二日間ばかりかけて日待ちをしたもんだ
棹に提灯をつけてな、みんなの家をまわって菓子や銭をもらってあるいた
二日目にゃあんまりもらえなかったがねぇ
今のこどもはもうやらねぇ
2007.05.25(08:44)|道端の神 道祖神庚申コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
石の祠の足元に丸石がある。
大切なものなのに奥まったところではなくて足元に転がり出ている。
これはいったいどうしたということだろうか。

右図は山梨市大工の天神社のもの、石祠の奥には石棒が収められている。
こんな石の祠が甲州ではよく目に付く。

皇帝ペンギンは厳冬期に足の上に卵をのせてじっと孵化を待つのだそうだ。
時にはみんなで固まってお互いの体温を寄せ合いながらブリザードを避けるのだという。
甲州の石祠にある丸石を見るたびに皇帝ペンギンの姿を連想してしまう。
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左図は山梨市馬場の若宮八幡裏の石祠である。
やはり足元に三つも転がっている。
こちらには石棒はない。
持ち去られたものか。

丸石は卵のように生まれ出た人間の子孫ではなかろうか。
皇帝ペンギンが足の上に卵を載せて護るように、神はどんな厳しい環境からもわれわれの子供を護ってくれているのではなかろうか。
そんな願いから生まれた姿かもしれない。
そんなふうにみえてならない。

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2007.05.22(07:33)|道端の神 道祖神庚申コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
長坂にある縄文の金生遺跡から有頭石棒と共に丸石が出たという。
訪れてみたがもう丸石はそこにはなかった。
ただ石棒だけはストーンサークルのように囲った石の中心にすえてあった。
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やはり異様な世界である。
ここは祭りの場だったのか、他の意味のある儀式の場だったのか。
発掘時の状態で保存してある建物もあった。
そこにも丸石はなかったから出土した翡翠や生贄の骨、矢尻など共に郷土資料館に引き上げてあるのだろう。
石棒は明らかに人の手で加工したものである。
おそらく一緒に出たという丸石も写真で見ると人為的に丸められたものとおもう。

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実は、わがふるさと八ヶ岳の西側の縄文遺跡からも丸石は出ている。
八ヶ岳周辺の縄文遺跡は、子供の頃の学校の遠足の場所であり、社会科の見学のコースになったものだ。
穀物を粉にしたとおもえる石皿と石の棒はそんな遺跡でよくみるものだったが、丸石は用途がわからないからかあまり紹介されていなかった。
石棒もその形からか子供達の教育の場には登場しなかった。
立川の普済寺の大欅付近からも小さな丸い石が数個発掘されている。
縄文の遺跡がそこにあったらしい。

最近になって甲州の丸石道祖神をみて歩くようになった。
自然界からにこんな丸い石が発見されれば、その希少性から神として祀りたくなるものなのだろうと漠然と考えていたが、金生遺跡を見るにおよび丸石はもっと前、縄文の時代から祭りの中心にあったものじゃないかとおもうようになった。
石皿と石棒は穀物を粉にして焼いて食べるための道具であったといわれている。
そうだったのだろうが、子供の離乳食にはずっと使われていたのではないか。
やがて水稲の時代になって、食すなわち子孫繁栄の儀式に使われる道具になり、ついには祠に入って神となったのではないか。
諏訪ではミシャグヂという祠に収めた石棒がおおい。
甲州は社の中に丸石が多いのだが甲州でも西にゆくほど石棒も見えてくる。
この地区に保存されたのは弥生系に圧された縄文の民族の違いのような気がしてならない。
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2007.05.21(17:51)|未分類コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
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祠の中は大切なご神体である。
甲州では御幣であったり石棒であったり丸石が入っていたりする。
諏訪の富士見では双体道祖神やこけしのように積み重ねた丸石の達磨だったりする。
しかし、もうおおくは空っぽになっている場合がおおい。
これも時代なのか。
石祠は墓であったり道祖神であったり屋敷の祝神であったりして、もうその神様の役割もわからなくなっていることが多い。

津金の路傍に小高い丘があって草むらの中に石祠があった。
傍らには丸石が転がっている。
さすがに甲州である。
丸石はいたるところで目に付く。
さて、百合の茎を押し分けてその石祠のなかを覗いておどろいた。

DSC_0177.jpg

首がはいっている。
手前の丸いものは石棒だろうか。
灯篭のギボシのようにもみえるし、仏頭は地蔵の頭部のようでもある。
顔つきからはそれほど古さは感じ取れない。
あるいは甲州によくあるように丸石と石棒か。
遺跡の捏造という問題が新聞を賑わしたことがあるけれど、そんな気はないにしても後から入れたものかもしれない。
それは後世を惑わす結果にならないともかぎらない。
これはいつたいなんだろうか。
いずれにしても注連縄が張ってあるのだから、信仰の対象であって、誰かが正月にはきちんとお参りしていることに違いはない。
他の類似例があれば知りたいものだ。

2007.05.20(07:40)|未分類コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
庚申の行事は何時ごろまで行われていたのだろうか。
腹の中に住み着いた三尸の虫が庚申の晩に抜け出して天帝に悪行を報告して寿命を縮めるという発想は実に面白い。
たから寝ないで起きているという対応も人間らしくていい。
庚申は道祖神の場所にあったから小正月のどんどやきには其の場所で厄払いなどをしていたから私の子供の頃にはまだ名残はあった。
いまはどんど焼きさえもなくなっているとおもう。
庚申の講は青面金剛像とか猿田彦、三猿などの石塔を、みんなでお金を出し合って建てた。
そのおかげでいろんな石仏をみて昔を偲ぶことができる。
DSC_0319.jpg

上津金の海岸寺を見た帰り、穴平の路傍に庚申塔が並んでいた。
文字塔は面白みに欠けるがこれだけ並ぶと圧巻だから目を見張る。
一番右の庚申塔には「昭和五十五年庚申 閏二月十七日當所」とある。
「え」
昭和五十五年といえばついこの間じゃないか。
となりは大正九年三月である。
万延元年、寛政十二年のもある、みんな庚申の年である。
六十年ごとに建てているのか。
それをいまも続けているのか。
これはおどろいた。
あと三十二年生きられないだろうから、この続きは私には確認できそうもない。
しかし、確実に続けていって欲しいものだ。
そのときには青面金剛像に三猿、日月、二鶏を入れて欲しい。

2007.05.16(09:49)|道端の神 道祖神庚申コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
DSC_0369.jpg


須玉の若神子諏訪神社の入り口に怪しいほどまんまるの道祖神がある。

台座の四方には
「道祖神」
「上組氏子中」
「天保十一年庚子三月嘉辰」
「高遠石工北原善七祥重」
と刻まれている。
高遠石工による人工の丸石道祖神であることがわかる。


甲州には自然石の丸石道祖神がべらぼうに多いのだが江戸時代になってからも丸石道祖神は作られたのだろうか。
あるいは若神子新町という地名もあることから新たに開発された新田だから
古例にならって造られたものか。
道祖神信仰は江戸時代に盛んだったことがわかる。

いびつでも自然石には容易に見出せない不思議さに惹かれるものだが、端正にまるいのもまた怪しいものだ。

しかし人間とは勝手なものである。
近代の人工的に造られて墓の門などを飾っている丸石を見るとがっかりさせられる。
不完全の方に魅せられるのはどうしたことだろうか。
このように天保年と高遠石工の銘がなかったら、「なんだ、まねして作ったまがい物の道祖神か」と見下げてしまうかもしれない。
当時正しく球形に削りだすのは大変な技が必要だったはずだ。
この球もスケールで計ると二センチほどの差があるのだという。
今は機械に浸かりすぎている。

2007.05.14(06:52)|未分類コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
Dsc_0246.jpg

八ヶ岳の裏側、上津金の海岸寺に守屋貞治の観音像がある。
その数は百を越えている。
守屋貞治は高遠の石工で社伝によれば桃渓和尚の依頼によって十年余をかけて制作したという。
桜は終わったあとだったがギボシや鳴子百合などあらゆる草々が新芽を吹き出して寺の甍を染めている。
寺の入り口には「この寺は観光地として開放していない、静かに人生のあり方について考える場所である」と案内されていた。
なるほどそんな雰囲気を醸している。

西国三十三寺、坂東三十三寺、秩父三十四寺の主尊を集めた場所はいっぺんでそれらの霊場を回ったと同じご利益を得ることができるという。
そういった寺はよく見かけるけれど仏像の数が多いせいかいずれも彫りはないがしろにしたものがおおい。
ところがここのはどうだ。
千手観音の一本一本の指、持物、化仏どれも精緻を極めている。
千手観音の手は一本で二十五世界の衆生を救うのだという。
だから四十本の手がきちんと彫られている。
さすがに名だたる高遠の名工である。
山門をくぐるとそんな観音さまがずらりと並んでいるのだからまず驚かされる。

全身、アップとカメラのシヤッターを切ってゆくと手の平が熱くなってきた。
さては守屋貞治の霊験によるものか。
われにかえってみたらなんのことはない、レンズのモーターが加熱したのだ。
さもあらん、これほど連続してシャッターを切ったことはないから。

Dsc_0287.jpg

十年余というから月に一体ほどのペースでこしらえたことになる。
いや、冬は雪で仕事になるまい。
するともっと早めないといけない。
そればかりではない。
仏像の持物や形には決まりがある。
今では仏像図や経典は図書館で検索できるが、当時は生易しいことではない。
僧籍のない貞治はどうやって勉強したのだろうか。
おびただしい石材も山の上まで運ばなければならない。
石工は四人一組で作業するというが、守屋貞治には弟子がいたのか、記録はない。
それに仏像には何処にも銘が刻んでない。
銘がなくても守屋貞治とわかるのは風貌である。

仏像というよりも人間の顔をしている。
はれぼったくキレの長い細い目は信州人の顔だ。
ここにいるとふるさとの諏訪に帰ったような気持ちにさせられる。
曽根原駿吉郎によって高遠石工守屋貞治が世に紹介されるのは最近のことである。
それまで誰が彫ったものかなどということはまったく感心のもたれないことだった。
ただの石仏である。
石仏は風化してぼろぼろになって、石が自然といったいになって野仏といわれるようになる。
とろけてしまいそうになって味がでる。
しかし、この石仏だけは風化させたくないものだ。

Dsc_0195.jpg

さて、それらの石仏のなかに一躰だけ丸彫りの観音がある。
顔が違う。
円空仏のような微笑みである。
これは貞治によるものだろうか。
もし、これも守屋貞治だとすれば百霊場の諸観音は意識して造った顔になる。
いやいや、まてよ。
こちらが造った顔か。
貞治スマイルはどちらが本当か。
いずれにしても貞治はただの石工ではない。
作仏聖である。
2007.05.13(08:12)|貞治仏コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
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甲州の東光寺町に自然の岩の上に首をすげた地蔵がある。
大きさと奇怪さには驚く。
となりに熊野権現神社の社があって、社の中には石棒と御幣があるところを見るとかなり古いものらしい。
その熊野権現とかかわりがあるのかないのか、知る人はいない。
故郷の山田にある万治の石仏を彷彿させるものだが、これには銘はない。
顔をみると端正な顔つきである。
それほど古いものではなさそうだ。
万治の石仏には万治三年の銘があるから「万治の石仏」と呼ぶがそれまでは「山田の阿弥陀さま」だった。
阿弥陀さまでふることは「南無阿弥陀仏」と彫ってあるからわかるのだが、これはお地蔵さまなのか他のほとけさまなのかもわからない。
弾正ゆかりの万治石仏に姿は似ているというものの、まったく違うもののようだ。
万治の石仏は利用しようと鑿をいれた石に災いがあった。
それを供養したものとおもっている。
それに比して、これは仏威光が先にでている。
大きな岩の上に顔を乗せれば奈良の大仏のように、威厳と威光に満ちた姿になる。
そうなのだ、仏とは偉大なものなのである。

2007.05.12(10:11)|未分類コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
甲州にはいたるところに丸石神がある。
大きなものから小さなものまで、中には祠に納まったものもある。
奇異な情景なのだがそのいわれはさっぱりわからないらしい。
どうして甲州に多いのか、それもわからないのだが、近くの羽村でそれを見かけた。
羽村の羽加美というところ、そこは玉川上水の取水口がある羽村の堤から僅かに上ったところだ。
そこに阿蘇神社がある。
実は近くの一峰院という寺を訪ねて、名木だった日向水木も枯れてしまいめぼしいものは何もない状態だったので隣の阿蘇神社に寄ったのであるが、阿蘇神社は熊本の阿蘇神社から平将門が勧請したと伝えられている。
古くは武蔵阿蘇神社としてにぎわったらしい。
その阿蘇神社の古い参道(といっても多摩川の土手なのだが)に阿蘇神社と関係があるのかないのか、幾つかの祠があってその中に丸石が収められていた。
その形は甲州で経験した幾つかの祠に納まった丸石神と同形のものである。
この丸石は隣に流れる多摩川の河原から拾ったものか、形も河原にありそうな形に見える。
Dsc_0010-.jpg

近くの民家の庭先にも祠があってその中にも丸石が収まっていた。
焼き物の狐が同居しているところを見るとその家のお稲荷さんかもしれない。
甲州にも道祖神のほかに屋敷神として丸石があるようだから同じようなものかも知れない。
甲州の丸石神と羽村の丸石がおなじものかどうかはわからない。
たまたま甲州ゆかりの方がここに移り住んだのかもしれないが、いずれにしても実体の無い神よりは形として神秘的な丸い石を神の代わりに収めたもののように思えてならないのである。

Dsc_0013-.jpg

2007.05.04(11:17)|道端の神 道祖神庚申コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
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