ホームページの紹介
http://www5.plala.or.jp/gyumei/
写真や絵手紙など牛鳴HPの玄関先です「牛鳴さんちのたからもん」

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--(--:--)|スポンサー広告||TOP↑
Dsc_0002.jpg


テレビドラマはあまり見ない方だが、丁度NHKの大河ドラマの「武田信玄」で諏訪攻めをやっていた。
故郷には諏訪神社の神長臣が書き残した古文書「守矢文書」がある。
その中に信玄が諏訪を攻めた頃の詳細な記載がある。
当時、諏訪は一族間の大祝家と総領家が相対しており、そのまま諏訪と高遠の敵対であった。
諏訪神社の神長と禰宜の間は諏訪と高遠にそれぞれ加担して敵対していた。
そんなときの記録である。
テレビは武田側から語っているものだが、諏訪側から物語る内容をダブらせると実にリアルになる。
諏訪と高遠は敵対していたが甲州とは婚姻関係にありいわば親戚、よもや攻め入るとは思っていなかった。
その狼狽振りがまざまざと書かれている。
甲州につれて行かれた諏訪頼重の切腹のくだりなど見てきたようだ。
それを知った上でこのドラマを見ているから面白いのである。
さてこの先、ドラマは高遠攻めに移り諏訪からは離れてゆくだろう。
続けて見るかどうするか。

(甲斐善光寺 信玄公像)
スポンサーサイト
2007.04.24(10:49)|未分類コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
Dsc_0025-.jpg


江戸芝牛町に、大切に飼われていた牛がおりました。延宝6(1678)年5月下旬のこと、その主人の夢に三晩続けて牛が現われ、「私を甲斐善光寺へ参詣させてください。そうすれば、必ずこの家は末長く栄えるでしょう。」と告げたのです。主人は不審に思っていると、6月初め牛は自ら小屋を出て、西に向って駆け出してしまいました。主人はあわてて後を追ったのですが、捕まえることができず、先日の夢の告げも思いあわせ、放っておくことにいたしました。一方この牛は、四谷口から甲州街道をひた走り、6月18日板垣村善光寺に到着し、金堂に参詣いたしました。四足を折り伏して頭を垂れる様は、まことに人が善光寺の如来様を拝むかのようであったと申します。数刻の後、おもむろに立ち上がり、金堂の東側に駐まること7日間、8日目にようやく帰路につきました。
江戸に帰った牛は、30日ばかりして突然死亡しましたが、その体には円光が輝いていたということです。主人は、日頃信仰する阿弥陀如来様の再来かとねんごろに供養し、牛の角を当山に寄進したのです。一本の角はこの地に埋め、五輪塔を建立して、信心深い牛の末代までの記念といたしました。その後、霊夢のごとく主人の商売は繁盛し、福徳円満に暮らしたと伝えられております。そのため、開運福徳の霊牛として、この碑を参詣する人が絶えないのです。なお、もう一本の角は寺宝として現存しており、宝物館で一般に公開いたしております。
(看板資料より)

甲斐にも善光寺がある。
武田信玄が謙信との合戦で焼失するのを防ごうと寺社寺宝から僧まで甲斐に移したのだという。
今、寺宝は信濃に戻っているが堂とした寺である。
裏の墓地には沢山の石仏が建っているがその中に霊牛碑なるものがあった。
只の五輪塔だが因縁はおもしろいので、看板のまま挙げた。
善光寺といえは牛に曳かれて善光寺参りのたとえ、この話は本当にあったことなのか誰かが作ったものか。
ま、牛だってお参りしたいちがいない名刹だから。

2007.04.23(09:24)|未分類コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
Dsc_6260.jpg

韮崎の柳原神社に狛犬の写真を撮ろうと立ち寄ったとき、神社の脇に小さな石塔がならんでいるのをみつけた。
それらは全部、馬頭観音であった。
文字で書いてないのもちゃんと馬の頭の飾りが観音さんの上に乗っているから馬頭観音であることがわかる。
古い街道筋とはいえ何と数が多いことか。
隣の道路は甲州から佐久に抜ける141号線だ。
この道を整備したとき邪魔になった観音さんをここに集めたのだろうと、なんだか腑に落ちないような妙に納得したような変な気持ちでこの写真を撮ったものだ。
現代人のなんとも身勝手な仕業と。
あるいはうち捨てられるよりはこうして集められたほうがいいのかと。
傾いているものや陰になっているのも気になって仕方がない。
こんな形で本来あった場所から移動を余儀なくされた石仏はいくらでもある。
そりゃそうだ、世の中進んでいるのだから。

Dsc_9670.jpg

ところが先だって山梨市の牧丘町北原地区に行ったとき、これと似たような小さな馬頭観音が並んでいるのを見た。
文字の石塔は少ないが観音さんの頭には馬の頭が乗っている。
中には双体像もある。
双体像にも馬の頭が乗っている。
やはり馬頭観音だろう。
北原地区はフルーツ栽培が盛んで道も整備されているとはいえ、こんな山深いところで邪魔となってここに集められたとはとても考えにくい。
ここが馬のお墓であったかどうかはわからないが、死んだ馬の供養のための場所は人の墓地と同じように一定の決まった場所があったのではないだろうか。

20070419125716.jpg

よく見かける立派な馬頭観音像は三面六ぴの憤怒相をしている。
そんなのはわが町の立川の鳳凰院の境内にもある。
こんな立派な観音さんが傷だらけになっているのは競馬ファンの仕業らしい。
叩いて掻いてもっているとげんがいいということらしい。
いまでは手の届かない高い場所に持ち上げられているが、馬頭観音は決して勝ち馬の予想などできはしない。
山梨の馬頭観音はこんな立派な像ではないから叩かれることはあるまい。
どれも馬の頭を乗せたお地蔵さんのようである。
どれも素朴で消えかかっている。
2007.04.19(12:58)|未分類コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
Dsc_9493.jpg


石垣なんてものはなぁ
そこに石があるんだから
そのまま積みゃいいのさ

いいや
石垣は水も漏らしちゃなんねぇ

見事だが
それ、草がはえてるぞ

これはしたり


Dsc_9536.jpg


(山梨市 春日居町鎮目)
2007.04.11(09:33)|未分類コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
丸石神はほかに幾つもあった。
丸石は笛吹川の急流を転げるうちに角がすれ落ちて丸くなったという。
あるいは甌穴のなかで丸く削られたという。
そうかもしれない。
が、しかし、
大きな石は火成岩のように見える。
それらを見るとかわり球の飴のように皮膜状になっているようにみえる。
剥けのこった名残が臍のように残って瘤のようにみえる。
下半分は皮が剥けたように見えないだろうか。
Dsc_9547-.jpg

こんな大きな石が川で転がって生成されたとはとても想像できない。
石島の丸石も下半分に皮がはがれたような痕跡がある。
これらは時代の経過かもしれない。
想像で決め付けてはいけないが、これらの丸石を見ていると、川の流れで作られたなんて嘘だろうとおもってしまうのである。

Dsc_9557-.jpg

これはどうだ。
北原の耕雲寺の入り口にある丸石は上皮が半分剥げ落ちている。
縁は結晶質のようにもみえる。
更に近くの洞雲寺にある燈台の屋根らしき部分は剥けた丸石の皮じゃないだろうか。
Dsc_9652-.jpg

Dsc_9693-.jpg

七日子神社は縄文の遺跡だという。
入り口にある丸石は縄文遺跡でよく見るリンガのようだ。
これも丸石の皮が残ったもののように見える。
溶岩が冷えるときどんな過程をたどるものかとても想像できるものではないが、自然の力とは摩訶不思議なものである。

このあたりの畑はどこを掘っても石がでてくるという。
先祖代々、そんな石をこまめに取り除いて耕地にしてきた。
邪魔な石は屋敷の石垣に積み、更に耕地を広げてきたのだろうか。
見事に丸い石ばかりをつんだ石垣の家があった。

掘り起こした石の中には形のよい丸いものがあったとしたら、珍しいそれらは神として祀ったとしても自然である。
Dscn1460-.jpg

2007.04.09(09:48)|道端の神 道祖神庚申コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
丸い石がそのまま神様になる・・・
ま、そんなことがあっても不思議ではない形が球である。
勝沼から七日市場の公民館を目指す。
そこには巨大な丸石の道祖神があるというから。

Dsc_9760.jpg


巨大な丸石はほかに幾つもの丸石を従えている。
なかには驚くほど完全な球に近いものまである。
丸いゆえにか、おもだったものは転がらないようにセメントで台に固めてあるが、その上には幾つもが雑然と積み上げてあるようだ。
これが道祖神なのだろうか。
道祖神とはいったいどんな神様なのだろうか。
隣にはなくなった首の代わりに丸い石を載せたお地蔵さんがいる。
その台座にも丸石は積み上げられている。
さらにもう乗せる場所がないとばかりに幾つかは地面に転がっている。
まず驚いて言葉もでない。
場所は公民館のまえといっても道路を挟んだ向かいでバスの停留場になっているがゴミの集積場でもあった。
昔は単に畑の中だったんじゃなかろうか。

Dsc_9765.jpg


通りかがった中学生らしい男の子に「こんな丸い石が他の場所にもあるとおもうけど知らないか」と声をかけてみた。
男の子は「知らない」という。
あるはずなんだが・・・・
その場所から北にすこし移動すると、さらに大きなのがあった。
すこし扁平だが差し渡し1メートルを越えている。
Dsc_9559.jpg


これはすごい。
ここのも小さな丸石をしたがえている。
前のもそうだったが隣には蚕影山と彫られた碑がある。
こんな近くに同じような丸石道祖神があるのに子供は知らないのだろうか。
おばあさんが草をむしっていた。
「ここは何と言うところ?」「七日市場の石島」
「他にもこんなのは無い?」「しらない」

道祖神は悪霊が入ってこないように村の境に作られた。
私の育った信州の諏訪にも村々にあった。
それらは丸石ではなく双体像や二十三夜待ち、庚申塔などが並んでいたが、もはや神様ではなかった。
正月に飾った門松や注連縄を焼く場所であり、厄年のものが厄落としに蜜柑や菓子や銭を撒く場所であって、普段は石塔の上によじのぼって遊ぶ場所であった。
だが、隣の村やその隣の村まで道祖神の場所は知っていたものだ。
なぜならそこが格好の遊び場であったから。
今の子供はそんな場所で遊ぶことがないのであろう。
2007.04.08(09:59)|道端の神 道祖神庚申コメント(0)トラックバック(0)TOP↑
Dsc_9101.jpg


ここには庚申塔が集められている。
いったい幾つあるのだろうか。
重なり合っていて正面から写真を写せないほどだ。
それらにも猿が刻まれている。
中には削り取られたような哀れな猿もいる。
彼らがいったい何をしたというのだ。

Dsc_9103.jpg

2007.04.04(10:09)|石になった猿たちコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
Dsc_9110.jpg

この門を護っている猿には先代がいる。
門から離れているが庚申塔が集められている場所に二体あり、金網のざるが被せられている。
その理由はもうこれ以上壊さないでくれということなのか、それ以外に何か意味があるのか、それはわからない。
いずれにしても一体は見るに忍びないほど痛んでいる。
もう一体は顔だけ見るとちゃんとしているじゃないか。
ざるは緑色の細かい目の金網で作られていて網越しではとても写真は撮れないから、ざるを外して写させてもらった。
いい顔をしてるじゃないか。
2007.04.03(09:18)|石になった猿たちコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
Dsc_9125.jpg

石の探訪ではお地蔵さんや観音さんとならんで猿がよく現れる。
単独でいることもあるし二匹で狛犬のように門を固めていることもある。
圧倒的に多いのは庚申塔の下部にある。
みざるいわざるきかざるの三猿だ。
それらの猿はいずれもひょうきんなしぐさや面白い顔をしている。
中にはもうすりへってしまって猿であるかわからないものまである。

下谷の小野照崎神社には富士塚がある。
ビルの谷間にある富士山はもう登ることもできなく鉄条網が張られ門が付けられて鍵がかかっている。
その門番には二匹の猿が手を合わせているが顔は割れてしまい、そのせいでではあるまいが泣いているようだ。
このサルはどうして顔が欠けてしまったのだろうか。
(下谷)
2007.04.02(09:42)|石になった猿たちコメント(0)トラックバック(0)TOP↑
プロフィール

牛鳴

Author:牛鳴

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブロとも申請フォーム
ブログ内検索
RSSフィード
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。